高度一万一千メートルの屋上猫

1.

陽当たりの良い山麓の街で迎えた夏は,いつも雨上がりのような新しい色をしていて,空は生まれたままの姿で眩しく輝いていた.プールは夏至過ぎの強い光線をはね返して,銀河の午睡.けれども,そんな僕の詩人気取りのつぶやきはいつも,高度一万メートルの屋上猫に笑われてしまう.屋上猫は僕のことをはるかな上空から見ているのだ.

そして,からかうような声だけが届いた.

「溺れてしまうのはプールも星も同じだな」

「何だよ,星に溺れるって」

この銀河の中へ飛び込もうとしていた僕は,すっかり興をそがれてしまった.屋上猫の言うことはいちいち勘にさわるけれど,一筋の光をプリズムで分けるように,僕の発見を彼は別の色と向きで解いてみせる.それは春,ある辛い決意を胸にこの街へやって来た僕の心を不本意ながらに元気づけていた.

例えば,舗装道に立つかげろうを見ていると,灼けたアスファルトは油が体に障るからいけない,人はコンクリートの白熱をこそ愛するべきだと言う.屋上猫は有り難いことに僕の健康にも気を遣ってくれる.じゃあ今度,学校の屋上で一緒に昼寝しようかと誘ったら,そんな低いところまでわざわざ降りてゆけるか,と言って怒られた.学校の屋上は白いコンクリで固められている.言われた通りに仰向けになって背中を焼いてみたら,目を開けていられない眩しい光の中で,全身が写真のネガになった気がした.

他にもこんなことがあった.廃ビルの鉄階段が,給水塔へ続いてることを知った夕方,秘密の場所を見つけたと喜ぶ僕に,彼は水を差すように言った.

「そこはまだお前の来るべき場所じゃない」

「どうしてさ.僕はこんな空が欲しかったのに」

「いいや,そこは本当に危険な場所なのだ.見ろ,鉄材がもう腐っているだろう.お前はまだこんな場所で,自分の命をもてあそぶようなことをしてはいけない」

屋上猫が真剣な声で言うから,夕日に翳る階段から血の匂いがして怖くなった.意味はぜんぶ掴めなかったけれど,ともかく僕が心惹かれるような場所には,いい場所といけない場所の二つがあるというのだろう.

このとき見上げた,赤黒く乾く給水塔の姿が,いつまで経っても忘れられない.

2.

まれに意見の合うこともあった.雨の日はずっとバスに揺られて,おもちゃを水に浸けたような,びしょぬれの街を行くのが好きだった.

「当然,座席は一番前だな,」

「もちろんそうさ.自分の前にはタラップと窓の他は何もない」

「そのときバスは街を泳ぐのだ」

「僕らは暗く滲んだガラス色の街を,重くかき分けて進む」

先生と生徒がときどき一緒になって遊ぶことがあるだろう.僕と屋上猫とは,ずっとそんな関係だった.

いつか,よだかに聞いてみたら,屋上猫は星になれなかった猫だという.誰かに触れたり話したりすること,その全てを失わないと星にはなれないのだ.

「じゃあ,どうしてよだかは僕と話ができるのさ」

「なにごとにも,抜け道はあるものなんだよ.それが彼には判らなかったんだ」

よだかはこの街ではじめて星になった鳥として,周囲から一目を置かれていた.彼は星になるための方法を,時々人に教えるという.試しに尋いてみたら,僕に余計なことを教えると屋上猫に怒られるから嫌だと言って,口を閉ざしてしまった.

こんな風に,屋上猫を知らない者はいない.そもそも,僕だってタバコ屋のお婆さんから教えてもらったのだ.

「ケムリを見るのが好きかい,」

「うん.高く昇るから」

「あんた,あんまり高いところばかり見てるとね,周りから手を合わされる人になっちゃうよ」

「尊い人になるということ?」

「尊いかもしれないけれど,手を合わされてしまったらもう死人と同じさ.それよりも,死んでから手を合わせてもらえるように生きるのがいい」

そうして,きっと気が合うといって紹介してもらったのが屋上猫だ.お婆さんに教えてもらったと告げると,彼はなんだか不服そうに返事をかえしてきた.そして,自分は高度一万メートルの屋上猫であると名乗った.

3.

夏の光は街を次第に漂白していった.この新しい街へやってきた時の気持ちが色褪せてしまう前に,僕にはやらなくてはならないことがあった.

僕は憧れの人を追いかけて,ここへ来た.そしてきっと,僕の求める人はあの屋上猫なのだ.雨や星,夏や屋上のことを話すその語り口は違っても,言ってることはあの人そのものだった.それに,僕が近くに居るのをまるっきり無視できるほどあの人は非情になれない.だから,姿は見せずに声だけを伝えて,僕が正体に気づいたと知ったら,また逃げ出すつもりなのだ.

聞きたいことが山ほどあった.どうして僕の前から姿を消したのか.なのにどうして僕のことを気にかけるのか.彼のやっていることは,矛盾だらけだった.だから僕は彼に悟られぬようその居場所を突き止めなければならない.

屋上猫は他の猫たちの縄張りに現れないから,僕は彼らの助けを借りることにした.竹薮の向こうにある小さな駅は,ホームの白さばかりが目立つ.廃線のレールの上には鉄道猫が座り込んでいて,過去を走る列車の音に耳をすましていた.鉄道猫と屋上猫は友達だっただろうか.

「同じ猫だからといって一緒にしてもらっては困る.私は過去を聞く猫.屋上猫は未来を視る猫なのだから」

線路はとても熱かった.鉄道猫はその上を裸足で歩いてゆく.線路は雑草に半ば埋もれながら輝きだけを残して続き,いくつ夏をくぐり抜けても,季節の果てまで辿りつかないことを示していた.

僕は,伸びきったレールがちぎれないよう慎重に後ろをついてゆく.線路は緩い勾配で,気がつくと随分高いところにまで来ていた.

「彼がいつも前を向いていたからこそ憧れた.君は彼の後をついてゆくのが好きだった.だから,彼に振り返って欲しくはなかった.違うかね,」

「おまえは僕らの過去を知ってるんだね」

「そうじゃない.私は君の足音を聞く.人は我々猫のように足音を立てずに歩くことはできない.君の足音は,レールの前にも後ろにも伝わってゆく.私はいつだって,君が今たてた足音しか聞くことができない」

4.

かつて二人は,屋上で語り合った.

「あなたは,僕の星なんです.憧れの星」

「・・・ぼくは,そんな遠いところに居るんだね.プロキシマ・ケンタウリだって四・二光年も向こうだ」

「遠くなんかないです.僕の初めて乗ったボーイングがその高さを飛びました.高度一万メートルのアナウンスがあったのは,なにもかも冷たく清浄に結晶する場所でした.そのとき,ここがあなたの居る場所なんだって思いました.僕はそこにやって来たのだと」

「数字が違うじゃないか.ああだめだ,君はやっぱりぼくのことを理解していない.そのとき,成層圏の境と星とのなす比がいくらかってことこそが,大切なんじゃないか」

彼が言うことはまるで意味が判らなかった.だけど,判らないからこそ,判るようになるまで追いかけ続けていい,そのことが嬉しかった.

「引き返すんだ,」

声が聞こえる.鉄道猫はもういない.ここはもう,彼の領分ではなかった.

「引き返すんだ,」

もう一度,声が言う.ここは,人が暮らし,街を往き,森に安らぎ,笑い,空を見あげ,太陽を浴びる.この世の全ての地上がここで,声は,その遥か彼方の屋上から聞こえてきた.

「ぼくはいつも,この高みで,君に『引き返せ』と命じるだろう.ぼくは,この先にある,まがまがしい光のことを知っているから.君が引き返すうちに,ぼくはいくぶんかこの光の中を進み,君が通るための陰をつくって待っていよう.だから,今は引き返すんだ」

「どうして,あなたは僕の前から逃げようとするの,」

「ぼくが逃げるんじゃない.君が帰るんだ」

逃げていたのは,僕のほうなんだろうか.だけど,僕はいつまでも憧れていたかった.憧れることが間違いだなんてことがあるだろうか.

「ぼくが君の星であるために,ぼくは君の前に立ちふさがらなくてはならない.さぁ,ぼくの命令を聞くんだ.君がぼくとともに歩いてくれるならどれだけ嬉しいことかと思う.だけど,そうすると君は自分の中の星を,失ってしまうんだよ.それは,どれだけ悲しいことかと思う」

僕の中で,憧れの人であることと友達であるということは,けして同時に有り得ない.だけど,ほんとうに彼の言うことが正しいのだろうか.彼は,どこまでも僕より前を歩かなければいけないのだろうか.なによりも僕のため,僕が憧れるために.そして,それをどこまでも追い駆けてゆくことが,僕が僕の中の星を守るということなんだろうか.それを確かめたくて,ここまでやってきた.けれども,強い決意で来たはずなのに,僕はまた,これ以上近づくことができない.

「もう時間だ.ぼくらはこんな風にしているわけにはいかないんだ」

そう言って彼は,もう一千メートル,高い場所へと駆け昇った.高度一万メートルの屋上猫は,高度一万一千メートルの屋上猫になった.

判らないから,また一千メートルの道を行く.僕たちは,どこまで高く行くのだろう.いつか,空と宇宙との境を越えて,この距離は星のスケールで計られるかもしれない.一千メートルが一千光年になる.そして,星ほどの距離がようやく,僕が星座を見るときのような意味もなく神聖なこととして,僕たちを関係づけるのだろうか.憧れるってことは,こんなにも馬鹿げた想いだったのだろうか.

(2000/12/1)

疏水太郎