Mickey told me

よほど遠い過去のこと,秋から冬にかけての短い期間を,私は,変なサークルの一員としてすごした……というような話は有り難いことに僕にもあって,二十歳前後のころ,好きなキャラクターの絵を描いて教養学部校舎に貼って回っていたこと,それが自分の特権であるように思い込むことの出来たその頃のことは,ミッキーさんたちのやっていたことを真似ようとしたものに違いなかった.B2と呼ばれるその委員会は新入生の僕と先輩のミッキーさんオギーさんの三人だけであり,仲の良かったふたりの間に僕が入れてもらうような形で,つまり相当のところ彼らの流儀によって活動されたサークルであった.B2というのは大学の書籍部(Book center)のうち2番目(本部構内書籍部の次)に設立された店舗という意味の生協組織内における用語であって,秘儀というのはそうした団の名前から始まるものである.生協書籍部の本を宣伝するための店舗内や機関誌における企画がいちおうの仕事となっていたが,例会は話し合いそのものよりもそのためのレジュメ製作に熱を入れるといった具合で,たとえばオギーさんのレジュメは佐野元春へのLOVEに彩られていて,僕のレジュメにはLOVEが足りなくていけないといつも文句を言うのだった.生協の学生委員には事前のレジュメ作成を重んじる伝統が見られたが,ふたりはそれを好きに解釈して自己表現の場としていたようである.

ミッキーさん,いや,さん付けで呼ぶと怒られたのであるが,人慣れない僕が先輩を気安く呼ぶことなどできなくてこれは最後までさん付けで通したのである,そのミッキーさんが当時熱を上げていたのが榛野なな恵の「Papa told me」であり,そのハイソな生活っぷりと素敵な娘さんに「おとーさん」と呼ばれることへの憧れが,ミッキーさんを強く突き動かしていた.本人もよく言っていたことであるがミッキーさんはお金持ちのぼんぼんであったので,実現する可能性を本当に考えていたのではないか.何か普通でないことをしたくて仕方ない人であり,かといって具体的ではないままに,一緒にベンチャーをしようとかいつも僕を誘ってみたり,これは実際,学生のうちに有機栽培の食品かなにかのWeb通販を手がけていたようだったのだけど,もう僕がお会いしなくなってからのことなのでよくは知らない.そして,いつかも書いたことだけど,彼女を追いかけてエジンバラへ旅立つ前,数年ぶりに部屋へ誘われた.部屋には小さく綺麗な工夫が増えていて,自分で料理などできるようになって,一歩,知世ちゃんと信吉氏の世界へ近づいたように見えた.今ごろは美しい奥さんや聡明な娘さんと一緒に暮らしているのかもしれない.

僕がB2の一員としてすごした頃のこと,Papa told me について忘れられない出来事があった.ミッキーさんが知世ちゃんに「おとーさん」と呼ばれたい気持ちの高じたあまり,そうしたお気に入りのコマを拡大コピーし,販促と称して店舗内に貼りまくったのである.漫画も置いていた書籍部であるが,まぁ,よく許してくれたものである.そういうわけで僕の大学の書籍部には入り口から知世ちゃんが「おとーさーん」とお出迎えしてくれる,という時期がしばらくあった.自分が好きな作品についてそんな風にアピール出来るということは衝撃的であって,だから僕も貼り紙をして回ることを思ったのだった.教養学部の校舎にときどき見られた新歓のポスターでも公演の案内でも政治的アピールでもない貼り紙たちは,たぶんそんな風になにか貼らずにはいられない気持ちによって生まれたのであって,僕はミッキーさんのようなびっくりすることをやろうと思って,A3とかA2とか誰もやらないような大きさの紙で,べたべたと掲示板を汚して回った.僕がミッキーさんと違ったのは正当な手続きによるものでなく勝手に貼っていたという点とアーケードゲームの女の子(リムルルとかウェンディーとか)を愛した趣味の違いであり,これはB2がなくなった後に僕が精を出し始めたその校舎を根城とするサークルの流れである.僕の根っこはどうしてもハイソと相容れなくて,ミッキーさんの進んだ方向へゆくことは出来なかったのだけど,真っ白な新入生だった僕を恵文社やMEDIASHOPへ連れ回し,おされ文系へいっとき染め上げる一方で,ミラクル☆ガールズやモルダイバーを見せてくれたのも,竹本泉が描くところの男の子と女の子がぺたぺた触れあう愉悦や須藤真澄の描く美少女について教えてくれたのもまたこの人であって,こちらはまだ僕のなかに深く根付いている.

はるもいで Papa told me について触れられたことにすごいびっくりしたので,なにか書こうと思ってたのだけど,なぜだかこのタイミングになりました.

疏水太郎