コミュニカシオン・ブランシュ

恋い慕うふたりの a sacred story でした.

神秘はすでに風景のなかにあって,子どものころならば僕ら走ったり手をついたり頬をつけたりしたその親しい地面の上に,マンホールやタイルの配置,色の違いの妙はあって,特定のものに触れることやその手順がそのまま誰も知らない僕だけの祈りになったのでした.祈りの形は奇異であるほど良くって,祈りにおいて誰も思いつかないようなことを伴わせたからこそ,もしも叶ったならば,それはほかならぬ自分の祈りによるものだと,信じられるような気がするのです.莫迦なことをと思うかも知れませんが,それは身ひとつ風景のなかにあれば出来ることで,僕らみーんな姿形が異なるのは一つとして同じでない術式をばその身に宿さんがためである,なんてね,神聖さが孤独に極まるときにはそんな風に感じていて,沙緒さんのブランコ術というのはそういうもので.ブランコからジャンプするとか雪のなかに身を投げ出すというのはいかにも子どもっぽいですが,これは沙緒さんが子どもであるというよりは,子どもっぽい振る舞いこそ彼女らの年頃にとって奇異と思われるからで,だから祈りとなるのです.そういう自分にしか判ってはいけない術式を繰り返していると,いつしかその傍にみーが立つようになって,みーは術式を何度も近くで見るうちに,まるで徒弟が親方の技を盗むように,沙緒さんと共同の術式を執り行うことが出来るようになってゆくのでした.このとき,みーが沙緒さんのことを徐々に理解してゆくように見えて,じっさい,沙緒さんがお付き合い前提でみーのこと見てたということには気付いてなかったわけで,共同とはつまり理解を伴わずに昇りつめることができるのです.どうしてそんなことが可能なの?! その目がくらむようなきらきらした様子は,ふたりの術式において唱えられた,コミュニカシオン,という言葉にあって,この言葉へ深い意味を与えるつもりは僕にはなくて,それは相手に触れたいっていう気持ちをちょっと不思議な響きを持つ呪文のような言葉に置き換えてみたというくらいで,神聖さがふたりの間に極まるときには,いかにもそんな呪文を唱えてみたくなるんじゃないかと思うのです.

これがあんまり極まると高いところへ昇りすぎて墜落しそうなもんですが,彼ら彼女ら冗談を重ねる余裕のなかに,再会から結婚へ繋がる地に足のついた展開も折り込み済みであって,優しい.オマージュの厚みについて,僕としては北へ。についてのそれさえ判ってればいいかと思うところで,これは他が判らないので半ば仕方なくでもあるし,そもそも何も判らなくても語ることは多いわけですが,まぁ好みで,それで家族形成を前提としたお付き合いの諸相というような大地感は北へ。のそれでもあります.北へ。と近接する箇所については,北海道と東京,母子家庭へのステイ,女の子のことは一日のおわりに選択されるとか,細かいところでは地下鉄の網棚から運河工藝館まで挙げはじめるとキリがないです.あと北へ。ではないけど春を招くその名とは佐保姫のことかしら.

ともあれ,神聖さという意味においてこれぞ巫女さんというお話でした.あるいは白倉由美のひとが話すと僕の見てないことがたくさん出てくるのかなと思います.

疏水太郎