桜のきわは曖昧の(5)

母に電話.桜を見ると父のことを思い出すと言う.罪な花で.

亡き人を思い出すというのはなにも桜の属性ではなく,華やかで,そしてそれを見るために連れ立って出かけたことはなんでも思い出になりやすくて,その華やかさが罪であるというどうしようもなくありふれた気持ちを,少しでも具体的なものに負わせたかったというだけで,桜にはいつもごめんなさいで.

どこまでも続く桜,染井吉野の森,というこの華やかすぎる春が造られたわけにはいくつも調査がありますが,そうしたことは一寸,花見酒に忘れて,いま僕の目の前には歌月十夜のレンによく似た桜の精がいて,彼女はどこか掛け違えたような情熱でもって桜を絶やさないようにしていて,桜の森が世界の果てに届いてしまうと彼女はあわてて続きの森を描き足してゆく,少しでも虚があるとそこから桜は枯れ始めるのです,だから彼女は桜の上に桜を塗り重ね,世界の果ては押し広げられ,その後ろに桜が残されてゆく,そうした間違った理屈に突き動かされるちいさな者がいたとして,それは馬鹿げているけれど愛おしくて,一面の淡紅色の向こうに少女を透かしてみるならば,きっとその酒はツンとくるでしょう.

京都の桜について印象深い出来事がありました.二月のこと,桜の開花の基準となる京都地方気象台の標本木が引退し,若い桜にその役目を譲りました.気象台に50年以上勤めていたということです.新たな若木のため,大阪管区気象台には正式に届けが出されました.このわざわざ管区気象台に届けを出すってところがね,ここでは桜も役人の内のようで面白いです.というのは京都のむかしむかし,六道珍皇寺の井戸から小野篁は冥府へ通ったといいますが,昼は朝廷,夜は閻魔大王の冥官として仕えた彼の話でも,あの世が官僚制という地上臭さが好きでして.

あるとき,六道の辻をそのレンによく似た女の子が曲がりました.はて,わたしのしらない道があるわ,これはいけない,と井戸をくぐり,賽の河原ゆき,桜を描き,三途の川を渡り,桜を描き,大王の前へ来る頃にはもう,あの世は桜で一杯だったとか.そのようにこの世とあの世は地続きで,昨今はスギ花粉も地獄まで飛びます.ここにひとりの男が大王の裁きを受けておりますが,「疏水太郎よ.なんじ八百の大きな嘘をついた罪によって…へくじっ! 痛ーーっ!」と大王様も舌を噛むような次第ですので,この季節は僕の嘘も多少大目に見てもらえますでしょうか.

参考:京都の桜の基準,半世紀に幕 気象台「標本木」世代交代(京都新聞2/14)

疏水太郎