ウソニワメモ

呪い≒女の子が生き難いわけ,として.

みずいろの清香・・・男の子は呪いを知らない.女の子は呪いを知ってる.読み手は呪いを知ってる.呪いは解ける.
こなたよりかなたまで・・・男の子は呪いを知らない.女の子は呪いを知ってる.読み手は呪いを知らない.呪いは解ける.
AIR編・・・女の子は呪いを知らない.読み手は呪いを知らない.呪いは解けない.だけど少しづつ変わってく.(リンク先はここまで古くなると文脈が落ちて僕自身でもよく読みとれないのだけど.)

僕らはむしろ自分にかけられた呪いのようなものに規定されてこそ生きているのではないかと思われます.たとえば,小暮琴美は子供の頃の冗談みたいな約束に寄り添わずにいられないのだし(「なんでかな……ほんと,勝手な,僕の思いこみなんだけど.運命みたいに思っちゃってる.」),もちろん中山りあも本人にとってすら理解できない呪いに規定され続けてきました.男女が心通わすに当たってどうも呪いの解けるタイミングと重なりがちなのは,二人で生きてくことがまた別の呪いであるからかも知れません.いや,今回その件はあまり重要ではなくて,これらの呪いっていうのが,相手にとって理解する必要のないものだったり,本人にとってすら判らないものであるというあたりが上記作品においては好みです.

「そうか,無茶には無茶で対抗すればいいのか.」(p.115)あたりは,杜浦直弥の御陵透子に対するアプローチのようで.あと,美奈萌がまひるのことをやる気満々に理解してないというのは我ながら名言として思い出されました.

ウソニワではおよそ呪いは理解できないという態度が支持されていて,その一方で中山りあの呪いは解いてやりたくて,だけど「こなかな」のような無茶はしなかったというか,女の子が生き難いそのわけをみんなが(男の子が,女の子が,読者が)知ることを選んだので,そのための断り書きとして呪いは解かなくてもいいんだということを浅井操に言わせたような気がします.なんつか多分,僕の願望としては,ですが.

どちらかというと理屈が優勢であると思います.だけど呪いを解くにあたって「方法一.りあが作ってる「庭」を完成させる」(p.192)という理屈ではないよく判らない選択肢が残されているあたりは良いです.

疏水太郎