ある日,爆弾がおちてきて

古橋秀之初読.表題作しか読んでないですが長くなりそうなのでとりあえず.

想像力が創造力に変わるお話(←ちょっと使ってみたかった).ニトログリセリンは爆弾を想像させるとか,胸の鼓動は時計のように刻むものであり,時限が来れば止まるそれは機械仕掛けとして連想されるとか,どきどきする恋心の在処が心臓の位置と容易に混同されることであるとか,昔ちょっと気になってた女の子が死んじゃうっていうドラマティックは,そうした連想のフル回転を伴うような,お話めいた出来事ではあります.それはそうとしてせっかくだから僕も色々想像させてもらうと,あんたときめきってどういうものだか本当に知ってるの,と問いただしたくなるようなピカリちゃんの段取りは,自分では読めない時計の文字盤であって,恋人持ちの長島くんによって冷静に読み取られてしまいます.とはいっても時計の針が読み取れるのはそれが思い出の中であるからで,気持ちというのは現在,目の前の出来事に対しては解釈できないもので,回顧のなかでようやくきっとそれはこういうことだったんじゃないかなと文字盤を明らかにするのでした.ああなんだ,つまるところ現在のことは本人にも他人にもよくわかんないよね.ある日,恋人がしてくれたおでこへのキスから,キスなんて出来なかったあの頃のことが思い出されたとして,それは今になってみるとやけに鮮明に読み取ることのできる文字盤として青臭く語られるのでした.

ここでサナララのことを少し思い出しておきたいと思います.サナララは第1章から第4章まで別のライターによるアンソロジーで,およそ男の子と女の子が過ごす時間は直線的であるよりも並行的あるいは量子的であるというお話でした.例えば,片岡ともによると第1章はみずいろの日和シナリオをもちょっとライトな感じにしたものであるそうで(*1).サナララに関して言えば,海富一による第3章「センチメンタル・アマレット・ネガティブ」(*2)と「ある日,爆弾がおちてきて」は見た目が大変似ているのですが,連続の断ち切られ方が異なっています.男の子がなんだか変な女の子と過ごした一日において,アマレットの方では変な女の子と知り合いの女の子との同一性が保証されつつも,その一日とその後の女の子の訃報とを男の子が連続した出来事として認知する道が絶たれています.一方,爆弾のほうでは,変な女の子と過ごした一日と知り合いの女の子の訃報が連続した出来事として認知される代わりに,変な女の子と知り合いの女の子との同一性はよく判らないものとされます.アマレットは1人,爆弾は2人,女の子の数が変わってくると自然,細工も変わってくるものですね.

*1: 男の子と女の子の時間の流れ方の違い参照.杉崎ゆきるのりぜるまいんは良いですねぇ.
*2: んっ,感想みたいなものはこのへん

疏水太郎