永久アリス#2(D.C.#25)

彼女らのままならなさが戦いへ直結する本気度を見ていると,中学生とは大変なものだと思えるのですが,たとえ打ち倒すべき敵と認めた相手であっても人の縁が出来てしまったなら争うことなく一緒に毎日を過ごせてしまう,きさちゃんの言葉を借りれば微妙な関係ということなんですが,僕は中学生の女の子を知らないのでそれは四十か五十の女が交わすような縁の持ちように見えて,そこでは悪縁も縁であって,ちょっと生々しい例ではありますが,おそらく母とは2,3のやりとりがあっただけで,しかも客観的に見るとそれは喧嘩だったのではと思える人がお通夜にわざわざ駆けつけてくれたというのが僕には不思議でした.先日僕が言った“深刻にならない”,というのは決して深刻でないはずはないのだけど,そこに別の道も開かれているというか,以下,別の言い方を探してみることにします.

僕らが父方の祖母とどうしてあまり会えなかったのか,それはついに父の口からは教えられることがなかったのですが,十年前,父方の実家へ帰ったお正月は僕にとっては最初で最後で,その帰り際に母が祖母を泣きながら抱きしめていた姿は,そんな母をそれまで見たことがなくて,一体そこにどれだけ難しいことが含まれていたのか今でも判らなくて,母もたぶん上手く言葉に出来ないんじゃないかと思います.

母がその祖母を憎んでいたということだけはまずないのですが,それにしてもD.C.第25話で音夢とさくらが抱き合うのを見るたびに,あの時僕が見た言葉にならない抱擁が思い出されるのです.抱き締めるというのは愛してるという気持ちに伴うだけじゃなくて,何か縁が極まってしまったときにも生じるのでしょうか.これは僕の想像に過ぎないのですが中学生の女の子というのはまだそこまで縁というものを芯に持たないので,長年の仇敵同士である音夢とさくらが抱き合うというのはゲーム版の話では有り得ない感じがするのですが,アニメ版の方では画面から伝わってくる何かすごい思い入れのような力でもって,中学生の女の子たちでもそこまで縁の極まることがあるのだと納得させられています.

永久アリスのオープニングアニメの良さは,冒頭で二度顔を見合わせるありすときらはの様子に集約されるのです.抱き締めるとまでは言わないでも,繋がっている,縁のある相手への処し方で,それは同じ男の子を好きになったお互いへの理解によるものというよりは,理解を前提としない何か破壊を妨げる原理が働いた結果であるように僕には見えます.

D.C.の後期エンディングアニメで音夢とさくらが手を繋いでいるという有り得なさもまた監督の宮崎なぎさの指定ではないかと思います.クレジットによると絵は田頭しのぶで演出が宮崎なぎさなんだけど.あと永久アリスのオープニングも絶対宮崎なぎさの手によるものだと思いましたが別のクレジットになってて,しかし,調べたらやっぱり宮崎なぎさの別名義でした(二宮ハルカ).うむ.

疏水太郎