シスプリ紀元

10年ほど昔のことだったでしょうか.世界がギャルゲーに満ちていると思われた頃のこと,僕にそう思わせていたのはG’sマガジンであって,そして男の子の夢が詰ったようなその雑誌を自分の手元に置いておきたいとまでは思わなかった頃のこと.まず時代はさらにそこから数年を遡るのですが,あんよさんも苦しめられそして見事に乗り越えてゆかれたニフレック(経口腸管洗浄剤.他の製品もあるらしいのであんよさんがこれだったかは判らない)に僕も悩まされていて,検査の前にはいつも相当憂鬱になったものでした.はじめの1リットルくらいは一気に飲めるのですが,その後が辛い.初めて飲んだときに気分が悪くなって吐いたという嫌な記憶もあって,その後も全部飲みきったことはありません.そしてあるとき追いつめられたような気持ちになった僕は,ニフレックを飲むための2時間,ああそうそう,これは2リットルを2時間以内で飲むことになっているのですが,この2時間を乗り切るには,何か癒されるようなもので気を紛らわせれば良いのではないかと考えて,そこでふと脳裏に浮かんだのがG’sマガジン,あれを熟読してみるときっと何か凄いであろうと思ったのでした.それで僕は検査の日にG’sを初めて買ってきて,病院の処置室で女の子満載の誌面を凝視しながら数ページめくる毎にコップへ注いだニフレックをちびりと飲んでいったのでした.あいかわらず全部は飲めなかったのですが,嫌な気持ちは相当マシになりました.それでそれからはいつもG’sがニフレックのお供で.そして,そういう縁がなかったらきっと僕がG’s誌上でシスプリに出会うことはなかったと思われます.

メガミマガジンがあまりに男の子の夢満載だったので,その頃のことが鮮やかに思い出されたのでした.いま,世界はギャルアニメに満ちています,という気にさせられる圧倒的な誌面でね.検査については気分がマシになるとはいえ好きになるわけもなく,僕の検査嫌いはこのためであるのですが,メガミマガジンがある今なら前向きに検討できる気がしてきました,とかなんとか.ていうか早く行きなさいよ.うわーん.マジ嫌.

このへんとか,お腹がぷー,とか.僕も貴重な体験をしたと思いました.

疏水太郎

それは恋

もはや何と名付けることも出来るのですが,人におけるなんらかの固有さを恋と名付けておくことは,それが友情であるとか敵愾心であるとか師弟関係であるとか他にも言いようがありそうであったとしても,青少年へ向けたお話としては喜ばれやすいものになりそうで.「俺ほど奴を憎んでいる男はいない」「(それはきっと恋ね!)」例えば腐女子的転倒というのは青少年の心に寄り添うような気持ちではないかしら.

普通に考えると,付き合いが長くなればなるほどあまり一般に知られていない相手の側面を知る機会が増えるわけで,そうすると理屈の上では幼なじみこそが相手のことをツンデレとして見つめる者の典型となります.

「私だけが知っている」,それを恋と呼ばなくてはならない青少年の事情においてのみツンデレという言葉が採られるのであって,幼なじみという言葉が恋を伴わない事情下でも利用可能である一方,ツンデレという言葉はどうもそうはゆかない,人の恋愛事情を指す以外の何物でもない言葉であって,なんか生々しいコイバナ用語ですよね.

このあたりの一連の話を読んで.

疏水太郎

勝手に部屋掃除しちゃイヤン

そういうわけで雨の降るなか凄い勢いでアニメージュとメガミマガジンを買ってきた僕がいました.後者はついに買ってしまったという感じですが,青春に殉じた本当に良いグラビア誌ですね.にぎやかで,編集も綺麗で,僕の目を楽しませてくれるページが多いです.

中高生が所有するにあたってはレジ障壁と母親障壁の高いシロモノであるね.ウォーロックの表紙でさえ僕の母には不潔という目で見られてましたから.たまたま話の被った薫さんとこから飛んでASさんのページでは,下着見せが発注項目であるように書かれていて,他のピンナップ群を眺めていれば判りそうなことなのだけど改めて言われるとなるほど,編集ポリシーが明快であるなあと唸りました.

疏水太郎

シムーン#1-#3

打ちつけるような構成,人の名前や呼称へのこだわり,そしてラブ,っていうとあのひとですが.特にブレンパワードと並べてみたくなってしまうところで,してみると,いのまたむつみのばちばちな瞳を信じてないのがブレン,西田亜沙子のばちばちな瞳を信じてるのがシムーンということになります.女の子の絵に対する信頼の置かれ方の差にびっくりしました.こんなにアーエルの瞳を信じてしまっていいんだ!みたいな.その衝撃もあるかとは思うのですが,結論としてアーエルよいなあ.一方,マシンのリバイバルを信じてるのがブレン,マシンのリ・マージョンを信じてるのがシムーン.両者ともマシンが生み出す絵に対する信頼があるので,ここは安心して見ることが出来ます.すげえ格好良くないですか,リ・マージョンて.

疏水太郎

VistaからLandscapeへ

D.C.サイドエピソードをまた最初から最後まで(#1-13)見ました.サイドエピソードの初音島は火星(アクア)の海に浮かぶネオ尾道である,というのは僕のなかでは既に常識ですが,とくに#4がそう思わせます.芳乃さくらが路地のお店へ初めて入ってみるところから始まって,不思議さんを追跡し,絶景かなーという眺めへ繋がってゆく様子は,不思議さんのケット・シー成分を差し引いてもなおネオ・ヴェネチア臭さあふれる風景の並びでした.僕が見たところ尾道という土地は,尾道水道を越えて向島を臨む片面の眺めしかもたないのですが,初音島は島であるので尾道水道側と外洋へ開けた海側(サイドエピソード#7で萌先輩が浮かんでる海)との両面の眺めを持っていて,先に初音島の見晴らし感覚に慣れていた僕は,実際に尾道へ行った時,その眺めをどうも狭く感じたのでした.土地の風景を島にして浮かべるという火星式の入植は,見晴らしへの期待を高めているのですねぇ.

縦に長い視野から横に長い視野へ突き抜けてゆく風景の並びは,見ていて素朴に気持ち良いものです.それは僕にとっては,と言うべきかも知れなくて,つまり縦長の枠は人体を収めるのに向いているし,横長の枠は風景を収めるのに向いているように思われまして,例えば漫画では縦長のコマが増えてくると,人間の話,悪く言えば狭っ苦しい話になるんじゃないかな.隘路迷路,いや,愛の迷路を抜けて鮮やかな視覚の世界へ.さよなら人間.僕は人間を描くのが苦手なので縦長の紙ではいつも構図に困ります.独りの人間では間が持たないので,複数の小さい人を置いてその間へ無理に背景を置こうとする.

とかいろいろ語りつつも,風景が気持ちよく並べられてるのはまぁサービスであるとして,#4で一番素敵であるところは,不思議さんを追っていたはずのさくらが,猛烈に走った後に綺麗な眺望へ辿りついてしまうと不思議さんのことなんか忘れてそれに見惚れてしまってる,というあたりではないかと思います.そのとき多分,さくらは頭の中が真っ白で,魔法とか難儀なことぜんぶ忘れてそうで.

疏水太郎

対面の嘘,背中の君

五月五日のこと,家族+親戚で尾道三部作(D.C.,カラフルキッス,かみちゅ)の地へ行きました.特にどの作品の誰を意識して向かったわけではなかったのだけど,バスから降りたときに自然と捜してしまった相手は頼子さんでした.せっかく千光寺さんへ行ってきたんだけど予習してなかったので何も判んなかったよ.これからD.C.サイドエピソード見直します.

町の中にキャラクターの姿を自然と重ねてしまうことはそうあることじゃなくて,あとはその昔,イタリアのクレマへ行ったとき,向こうのほうにヘンリエッタが居るような気がしたくらいだったかしら.(青森のとき,安達妙子の町であるのは判ったけど姿は感じなかった.)そういうとき彼女らは必ず僕に背中を向けているか横顔かで,そして僕から遠く離れて居るのであって,僕はただ彼女たちの居場所に迷い込んだという風であるから,彼女らが僕に向かって歩いてきたり話しかけてきたりということはちょっとなさそうな気がします.

一方で,熱海にあるという一高キック炸裂の像(金色夜叉)や京都北山にあるという苗子千重子いちゃいちゃの像(古都)など,小説映画ゆかりの地には名場面の像が据えられるようだけど,近くまで寄ってじっくり彼ら彼女らの様子を見ることが出来ちゃうのは逆にそこに居るという感じが薄れます.ただし覗き見るような助平さは五割増しなので,それでもやっぱり僕は見に行きたいと思うのですが.

熱海いきたいなぁ.

ご当地巡りにはいろいろあって,僕の鎌倉行きの場合は一夏の影を捜すというよりは僕自身が一夏のつもりであったのだったりする.

疏水太郎

彼ら彼女らからのインタビュー

言い落としていたけど,インタビュー,というのももちろん思緒雄二が用いた10の質問に習ったもの.

「以下に私からの質問を記します.シュンも考えてみてください.—こんどいっしょに答え合わせをしたいと思っています.」

あと,僕が五年前に書いたBeyond Roads to Lordの紹介文も,先日の文章に繋がってる.

疏水太郎

語り手の事情

かれこれ六年前,とある生徒さんたちと話をしていたときに気付いたことが,今でも僕が小説やゲームの人たちと話をするときにもっとも注意すべきことになっている.生徒さんたちってのは(もちろん)sense off に出てくる皆さんのことで,彼ら彼女らと一緒にむちゃくちゃな体験をすることになった一年間のことは,このページにつらつら書き残した通りである.

特に透子という人の淡泊な語り口は,例えばベルトホルト編のドラマチックな語りと比べると明らかに聞き手が納得することを拒んでいるように思えたので,透子の言うことを信じないようにしてみることから僕と彼女との付き合いは始まった.そうして気付いたことは,キャラクターというのは僕ら人間と同じ語り手であるので,彼らの話す中に個人的なこだわりや妄想が含まれていると感じられるような時はそれを無理に信じなくても良くて,それでいてなお僕がキャラクターを好きになることは出来るということだった.僕らは普段からこだわりや妄想を伴って生きてるものだからね.

SOS団についてむかし書いたことは僕のそういう接し方がいちばん強く現れたものだと,今ふり返って見るとそう思います.塵に埋もれていた文章に光を当てて下さって有り難うございました.

疏水太郎

『光車』注

まずは「天沢退二郎の十冊」をリストのみ挙げさせてもらうことにする.

  • 「宇治拾遺物語」
  • 上田秋成「雨月物語」
  • 内田百閒「冥途」
  • 吉岡実「ムーンドロップ」
  • 宮沢賢治「風の又三郎」
  • 泉鏡花「沼夫人」
  • 坪田譲治「童心の花」
  • 石川淳「鷹」
  • 深沢七郎「楢山節考」
  • 花田清輝「『吉野葛』注」
     (ただし葛の字は異体字「ひとくず」)

以上は幻想文学33号の特集「日本幻想文学 オールタイム・ベストテン」において寸評とともに列挙されたもので,順不同とされている.一冊と数えるにはふさわしくないものも交じっているが,「?の十冊」というのは「長門有希の百冊」を見るときと同じ親近感を持って僕がそう勝手に呼ばせてもらっているところで,これを一つずつ読み進めているのは「長門有希の百冊を実際に読もう」に習ったと言っていい.

うち,「雨月物語」「冥途」「沼夫人」「」については既にいくらか述べた通りであり,水や水辺の様子が出てくる毎に「光車よ、まわれ!」に代表される天沢退二郎の好む風景を連想してきた.あるいは登場する女性の姿にルミや龍子の姿を重ねてきた.これまで言い落とした「風の又三郎」について同じようにするならば,谷川の岸に位置する学校から始まる物語が山河を一巡りしてまた学校の教室へ戻るとき,風は教室のバケツに黒い波をたて,土手の上を,霧のなかを行き,雨上がりの栗の木の枝葉を揺らし,川辺で夕立と交じり,嵐となり,ついにはもと居た教室の床をざぶざぶ濡らすという水の巡りを伴うことがよく判る.

「鷹」については以前,符合するところの多さから光車の水源地であるとしたが,何度も言うように水源地というものは妖しい.おしなべて源というものを僕らは還元することが出来るだろうか.言葉の定義を辞書までに留めておくのが僕らの暮らしであって,その先のこと,言葉の定義文に含まれる言葉を遡及的に定義し求めるのは止めよ,さもなくば死して後も貴公の魂は答えを求めて宇宙の暗黒を無限にさ迷い続けることになるぞ,とまあ,大抵の坊主ならばそう言うのである(秋山瑞人「猫の地球儀」).谷崎潤一郎「吉野葛」では,南朝の物語のルーツを求める谷崎の旅は吉野川の水源地へ向かう旅や友人津村の母方のルーツを求める旅と重なりつつ,年寄り(「おりと」)のおぼろげな記憶と津村の母親への思い入れが綾なす曖昧さにしか行き着かず,源たる地とはその曖昧のなかで津村とお和佐との結婚へ辿り着くに留められる.「吉野葛」において思い入れが定義を留め,そういうことにしておく,その様子は,憧憬する心が母親を「山村のシンデレラ」(「『吉野葛』注」)と成すだけでなく,何の奇もない鼓が家宝の「初音の鼓」として伝えられることにも現れる.「光車よ、まわれ!」も大きな流れは龍子の祖父へ向かう旅であり,そこにルミが自分の亡父や先祖を思わせる人々へ向けて水路を行く旅(ルミの冒険)が平行する.この旅の結末もやはり,一郎にとって夢と思えるような風景であり,ルミが目にした真相らしい劇とその解釈は「ひとりごと」として共有されないままになる(ちくま文庫版,p.306-307).

「『吉野葛』注」では谷崎の「吉野葛」について,まずは「南朝の子孫である自天王という人物を主人公にした歴史小説をかくつもりで、いろいろと文献をあさったあげく、実地調査のために吉野川をさかのぼり、わざわざ、主人公の住んでいた大台ガ原山の山奥まで出かけていった作者が、流域の風物をながめながら、回想にふけっているうちに、いつのまにか、かんじんの自天王の話のほうはあきらめてしまい、その地方の出身者である、友だちの死んだ母親の話に熱中しはじめる、といったようなていたらくである。」(講談社文芸文庫版より引用.原文では「ガ」は小字.)としており,「これからわたしが、『水経注』にならって、「吉野葛注」とでも題すべき作品をかくのは、もっぱら谷崎潤一郎の小説のなかで使われなかった自天王関係の材料をモッタイないとおもうからであって、」と,「吉野葛」の元ネタについて列挙し始めるのであるが,花田清輝が「『吉野葛』注」の執筆にあたって谷崎を評したことはそのまま彼自身にも当てはめられてゆき,「吉野葛」の風景をながめながら,谷崎への想いにふけってるうちに,いつのまにか,かんじんの自天王の話よりも谷崎潤一郎という可愛らしい人の話へ熱中しはじめるところが愛である.

水源とは意味の奈落であってね.そのとき助平な脇見が僕らを思い留まらせる.

龍子のスカートについては前に触れたが,一方でルミはズボンであり,いろんなものを穿いてくれるのが脚を意識させて良い.スカートを脱いでズボンを穿いたところから彼女の冒険は始まる(p.122)などと言うといかにもであるが,その後,濡れたので他人のトレパンに穿き替えたり(p.150),ズボンみたいにボートを穿く(p.233,p.240),すぽっと全部脱がされる(p.250)というのはまったくズボンの醍醐味であり,いちいち脚を気にさせるところである.このあたりは龍子のスカート描写も併せてどうかしている.ただし,一郎がルミに恋していることは,初対面のときからルミがキラキラしたすてきな眼を持っているように見えたり,かがやくばかりにわらったように見えたりすることや(p.138),なにかにつけて瞳がかがやいてまぶしかったり(p.139,p.178,p.308),彼女の姿はあざやかに目にとびこんでくる(p.201)というような恥ずかしいまでの光として描かれるため,ズボンを云々するような僕の助平な品性は申し訳ない気がするところではある.

疏水太郎

青木正次全訳注「雨月物語」より,上田秋成「白峯」「菊花の約」

荒ぶる全訳注.事態をドラマチックに転倒して読むその語り口が大変好み.

雨月ってほんとにこんな話なのか? と迷うほどの饒舌な訳注釈であるが,セイゴオ先生による「『雨月物語』はどう読もうとおもしろいが、」という一文をみるに,雨月はその読まれ方においても伝奇的であるのかもしれない.

雨月物語も天沢退二郎が選んだ10冊の1つということで読んでいるため,今木さんとは偶然ネタが被った.爽子ちゃんのように浮かれて言うならば「シンクロ!」である.以上,全読破していないが被っているうちに書き残しておきたい.

疏水太郎

まじぽか #5, #7, #8

#5 看護師のお兄さんは素敵である.優しくて笑顔で頼もしい! 作中では献血のお兄さんだけどセンスとしてはそれ.この感覚は最近病院のお世話になったことのある方なら判って下さるのではあるまいか.

#7 ごく個人的にはモンキー・パンチの「先公はなび」という漫画を思い出す.僕が小さい頃,毎日小学生新聞に連載されていたものだ.先生(男)が実はロボットで,それを知った子どもたちにいじられていろいろイケナイ形にされてしまう.小さい頃はそういうものになりたくて,例えばキカイダーになりたかった訳であるが,ここではキカイダーになってどうされたいか,というところにまで踏み込まれている.つまり,子どもたちが悪戯してとかいじってとかいう触れ合いによって分解改造が行われるところの助平を,僕の幼心に植え付けていったのであった.

鉄子ヴォイスが良い.

#8 鉄子版エンディング.鉄子ヴォーカルにたいへん癒された.

疏水太郎

未読

呆けながらやっているのでなかなか日にちが進まないのです.リターンキー押すのも忘れて,これが紅葉の曲なのかー,とかこれが桜の曲なのかーとか聴き入っているうちに1時間が過ぎてゆくという具合.

つうわけで,全部終わった後に,また.

「かえで通り」然り(むっちがまだ)事前に神聖視してしまうと手をつけられなくていけない.

疏水太郎

竹宮ゆゆこ「わたしたちの田村くん(2)」

会えない間の気持ちを綴ると一冊の本になっちゃいました,というような一冊.人は会話しないほうが饒舌であって,僕としては田村くんが松澤と会話できない分だけたくさん田村くんの声を聞いたように思った.

今日,幸運にも季節の服がどわっと増えて,貴理ごっこすら出来そうな勢いとなった.あるいは相馬ごっこと言ってもいい.あーん,あしたどれ着てゆけばいいのー,と床に並べる切なさよ.あしたのことを考えるのもまた饒舌.あしたと会話は出来ません.

伊欧の振る舞いが高浦くんに未成熟として見透かされているのがちょっと嫌であった.見透かされるのは前回と同じであるのだけど,僕のほうがこのところ自分が伊欧のような立ち位置であるように思うから,舐めるような愛しさが傷穴から溢れ出た.

涙夜

魔法遊技

年寄りの昔語りであるのでご注意を.

たとえば貴方が男の子で,幼いころ側にいてくれた佳人は夢の彼方へと消えて,いまではある女の子が側にいて,だけどその二人が重なるように思えたとして.または貴方が女の子で,幼いころ側にいてくれた猫は夢の彼方へと消えて,いまではある男の子が側にいて,だけどその二人が重なるように思えたとして.そんなとりとめのない空想から始めて,そこに空想に憧れる人たちを集めて,心と呼べるような何かを創作したいと,たぶん思っていた.恋い慕う心であるとか,姉弟の気持ちであるとか,そういったものをお話としてようやく確認するためのセッション作りに熱中していた.たとえば貴方は夢を見る.溺れる誰かを助けている.その相手は夢の佳人か隣の女の子か,あるいはそのどちらでもなかったか,そしてそれはどういう気持ちの流れに基づくものであったか.インタビューのような会話と選択とその理由づけの繰り返しが心と呼べそうな何かを叙述させて,その軌跡はただそれだけで魅力的な物語であると思えた.(なお,夢を用いたのは精神分析の影響ではなく,直接には門倉直人流の名残であった.)

客観的に判断できない選択について数多く尋ねることが重要と思えた.今にして思えば1995年から1997年まではプレイヤーへの形式ばらないインタビューが中心であったのに,ONEが発売された1998年以降ノベルゲームへ深くのめり込むにつれて,選択肢を用いたインタビューが人の心を形成させるツールとして有効であると僕は信じるようになったらしかった.

サークルの運営は,駆け引きの巧妙をボードゲームで鍛えるとか,振る舞いによるキャラ立ての仕方を学ぶといった社会的な技術の必要によって支えられていたが,社会以前の僕には居心地が悪かったので,僕は僕でそんな居心地の悪そうな人であるとか社会以前に戻りたい気分の人が集まるようにして,個々人の思い出や思い込みをそれぞれ語ってゆくだけのようなセッションをすき間産業的にやらせてもらっていたのであった.しかし,当時30人前後メンバのいるサークルであったため,運営上,メンバの振り分けはまず5卓か6卓あるセッションのマスターがそれぞれ内容をプレゼンし,それを聞いたプレイヤーが希望を出す形をとった.そして,あとは交渉やらじゃんけんやらで面子が決定された.そこで気が合わない人(自分語りしない人,子どもっぽい話をすると笑ってしまう人)がやってくるとうまくゆかないので,僕はあらかじめ予防線を張って,ビラを配ったり,みなで散歩することに時間をとったり,詩のようなものを創らせたり,水や死に関する思い出を語らせたり,そんな風にセッションが私的なもの,秘儀的ものとして感じられるよう工夫した.そうするうちに,なんやかや言いつつ僕もそのサークルの風土に生きる人間であったから,魔法の術式,つまりローカルな雰囲気の形成手法を技術としてサークル内に流通させるべきであるとか思い始めて,自己嫌悪に陥ったりもした.

当時のセッション紹介・配布資料はこちらに掲載している.今では首をかしげる箇所が多いが,「ローカルなコミュニケーションの優位」と「いつもの感じ」という言葉は採りたいと思う.ついては,こちらの文章(http://astazapote.com/archives/200011.html)が明快かつ名文であると思うので僕が言わなくちゃならないことは上のような自分語り以外にないのだけれど,ともかく僕みたいな電波っぽい人がわざわざWebArchiveから掘り出してしまってごめんなさい.

疏水太郎

石川淳「鷹」/天沢退二郎「光車よ、まわれ!」

父の入棺に際して僕らが添えたのは,洋画のDVDと吸いさしだったマイルドセブンの箱である.循環器の病であり,煙草がそれを悪くしていたと後から判ったが,父とそれとは切って離せる間柄ではなかった.もう思う存分吸えば良い,と手に持たせてやったのであるが,最近の煙草であるから「喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます」云々と表示されていたのは桐棺の中であまりに馬鹿げた構図となった.

石川淳の「鷹」では,公社の男が万人の幸福のためのもっとも上等のたばこを学問した.こちらはプライドがあって胸がすく.ただし,そのために男は公社を追われるのであるが…….

本作も例の天沢退二郎が選んだ10冊の1つであるが,僕が読んだのはそのためではなく「さくらむすび」から繋がりを辿るうち行き着いたもので,10冊に含まれると気付いたのは後になってからだった.ここで,たばこ密造団あるいはそうしたまつろわぬ者共の首領は少女であり,キューロットから出た男の子のような脚,マントをなびかせて空に舞う影は巨大な蒼鷹の姿を成すといった,かぶき好みで描かれているのは,光車の龍子を思い出すところである.龍子については「黒っぽいスカートがひらいて,うすぐらい部屋の中にまるで黒い鳥が立ちあがったように見えた」(「光車よ、まわれ!」第二章)とあるが,これをかの首領と並べてみると,鳥になぞらえる点は等しいとして,あとは少女の驚異をズボンから伸びる脚に見るかスカートの中に見るかという助平大戦である.男ってやつは…….また,小学生の龍子が最後に鞭をふるいだすのには驚いたものであったが,これは首領の少女が鞭使いであるのをそのまま持ってきたように思われる.

明日語も地霊文字の源流であるなぁ.運河の風景も含め,総じて光車の水源地であることがよく判る.

あと,龍子さんのスカートといえばもちろんこのひと

疏水太郎

内田百閒「冥途」

子どもの頃の話,であるような.語り手は「私」であるから年のほどは自明でないことがあってね.周りの大きい人はものを判っているようなのに自分は勝手が判らない.土手密度が高く,おおざっぱには7/18(土手話数/全話数)と算出されて,見ていると土と手とを並べた字面がいいように思われてくる.雨上がりの砂場で土まみれになってた頃のことが思い出される.

子どもの頃の,というのは嘘で,僕が今でも子どもだなぁと思う話であったりする.

こちらも天沢退二郎が選んだ10冊の1つ.川や堤防の風景といえば,最近では「侵略する少女と嘘の庭」か.

疏水太郎

あかほりさとる/桂遊生丸「かしまし」1-3巻

寄り添う(3巻 p.178)という言葉は縁が深まった様子を示すのに便利であって,僕も使いすぎのきらいはある.まず辞書的には「ぴったりとそばへ寄る」(広辞苑第五版)という身体距離の詰めしか意味しないのだけど,人が人のそばへぴったりと寄ったとき,そのうち何が起こってしまうかということはよく知られている.同じ場所にずっといると,関係してしまうのである.ただし,それを縁と呼ぶのは親子であるとか恋人であるとか一定の関係を指しがちであるため,言葉で説明するのは難しいがしっくりくる身体距離や身体配置があるというときに,寄り添う,という言葉がうまく当てはまる.たとえば,三人が一緒に居るとき,やす菜ととまりがはずむの左右の特定の側にいるほうがしっくりくる,っていうのはありそうで,僕はやす菜は左なんだとなんとなく思っていた.これは次のような調べ方だと極端な差としては出ないのだけどね,それでも三人の中にはきっとそういうのがあるんじゃないかな.

「やす菜ととまりははずむの左右どちらに居ることが多いか」

一コマの内に三人の姿があるという統語的な制約と,二人がはずむの側で左右に居るという意味的な制約のANDをとってコマを選択している.コマ内の人物配置は紙面座標上の左右ではなく,はずむから見た左右を採る.コマの区切りの判断はじっさい意味的であるが,枠線の範囲を基準に決めた.

表記は「巻数ページ数(コマ数)」.該当するコマが1つしかない場合はコマ数省略.

(A)はずむから見て左にやす菜,右にとまり

  • 1巻p.88,レジの前の三人
  • 1巻p.172(コマ3),画題を捜す道行き
  • 2巻p.11,とまりたちを誘うはずむ
  • 2巻p.34(コマ1,5,6),はずむを海辺へ誘う二人
  • 2巻p.54,55(コマ2,4),お昼ごはんのテーブル
  • 2巻p.59(コマ2,5),60,62(コマ1,7),65,73,74,肝試し
  • 2巻p.98(コマ3,4),神泉家夕食の席
  • 2巻p.102,104,105,はずむの机を囲んで
  • 2巻p.131,133,はずむの机を囲んで
  • 3巻p.86,花火を楽しむ三人
  • 3巻p.132,133,はずむにプレゼントする二人

(B)はずむから見て左にとまり,右にやす菜

  • 1巻p.173(コマ2,4),写生する三人.ちなみに7話表題は「少女三角形」.
  • 2巻p.28,海へ行く電車のシート
  • 2巻p.49(コマ4,6),50,海から帰る電車のシート
  • 2巻p.77(コマ3,4),お昼ごはんのビニールシート
  • 2巻p.103,104,夏祭り,リンゴ飴か?たこ焼きか?
  • 2巻p.122(コマ1,3),綿菓子ふたつ
  • 3巻p.92,94(コマ1,2),線香花火
  • 3巻p.97,98,はずむの机を囲んで
  • 3巻p.130(コマ3,4),はずむを迎える二人

三人にとって身体配置が偶然であったかなんとなくであったか意図的であったかは上のようなラベルをつけてもよく判らないが,読み手がそれを感知する手掛かりはこれくらいあったのでないかと.1巻p.172では,声を掛けた直後(コマ1)は左がとまりで右がやす菜だが,歩いているうちに左右逆の身体配置(コマ3)が行われたように見える.1巻p.151,2巻p.38にも代表されるよう,なんの準備もなく偶然二人から三人へ増えた場合については,少なくとも新たな身体配置が行われる以前であると見てカウントしなかった.そもそも,紙面上の左右にも僕らは影響されるだろうし,1巻表紙や3巻口絵のような絵も効いているが,試しにやってみたというところである.

初めの目的とは逸れるけれど,列挙してみると二人がはずむの両側に寄り添ってたのがよく判るのでさ.それで,3巻p.74ではやす菜の両側にとまりとはずむが寄り添って三人手を繋ぐという絵も際立つのでさ.寄り添うっていうのがどういうものなのだか伝わってくるでしょ.

アニメのほうはOPだけを見ていた.女三人寄れば姦しいではなく手を繋ぐ(女女女)を意味するという話を前にしたが(2006/2/13),あれは実はかしましOPを見た感想である.そこで三人は手を繋がない.はずむ,やす菜,とまりの場合,手を繋いだらもう語るべき困難はなく,あとはそのまま三人で寄り添っていればいい.

今回,他の人の感想を斜め読みして回った後で読み始めたら,やす菜ととまりの名前と容姿の対応が,僕が表紙など見て想像していたのと逆だった.こっちがやす菜か! ていうか想像していたのと全然違う人たちだった.たとえば,やす菜って女の子が好きな女の子なのだと思っていたけど,1巻の告白シーンの時点で既にそうとは読めない.告白されて断った側が泣いてる(1巻p.19)って,よほど好きだったのだねぇ.あと「顔のない月」の時には思わなかったが,よく考えてみると,あなただけ見える,あなたしか見えない,ってそれただの初恋じゃないのか,とか.

疏水太郎

D.C.S.S. #19-#26

魔女っ子のホームステイ,であったのだなぁ.アイシアは朝倉さん家の子どもになっちゃえば良かったのにね.

二年前の当事者なのでやりにくいだろう事情はあれ,さくらが随分と間違える.さくらは魔法が危険であることを説明するにあたって,二年前の事件においてどういう気持ちの流れに沿って何が起こっていたかを話さなくて,魔法の力に頼りすぎると全てが魔法のおかげだと錯覚をおこす,人々は努力することを忘れ……(#21)とか喋り出すのだけどそれどう聞いても二年前の事件と関係なくて,うわべで考えたことだから真に迫ってこない.一方,白河ことりは二年前の心境を具体的に語ってくれる(#20).そして,本当を語らない人の言葉は信ずるに値しないのである.アイシアのホームステイではじめに出会ったお姉さんがことりで良かったと思える.あと,さくらさんはあいかわらず口下手であった.

芳乃さくらが自分の言語を内面として見せるのに白河ことり程には達者でなかったので,彼女の恋のおはなしはアイシアにはうまく伝わらなかった,としておきたい.当時のことは誰にも話すつもりはない,なんて考えてしまっているさくらさんは想定したくない.というのは,魔法の話が辿りつく場所への期待に対する結果の1つであるかなぁ.

初音島の桜の魔法というのはおよそ事後的な説明原理であって,人が自ら実施するものではなかったのだけど,そこのところへ魔法を自分で操ることのできる魔女っ子がやってきたものだから,魔法とは何であるのかが一旦わやくちゃになってしまう.アイシアにとってはお婆ちゃんが道具的に用いていた人を幸せにする魔法こそが魔法であって,それはそう定義されるものであるがために初音島の魔法とは根元が異なる.もしもアイシアのホームステイという気持ちで読むならば,初音島の魔法は人を幸せにする魔法ではなく,そういう種類の魔法も世の中には存在しているということを,アイシアは覚えて帰っただろう.シリーズを通した感想として,二年前の事件のため重苦しく感じられた初音島の魔法とは対照的なアイシア小魔法の数々を見ることができたのは素朴に楽しかった.

疏水太郎

月ノ光太陽ノ影

3年前の自分に見せてやりたい年上の男満載ノベルゲーム.テキストも絵も上質のエロスでこういうのをずっと待ち望んでいたのだが,いかんせん僕に届くのが遅すぎた.唯一,周藤先生が僕より1つ年上なので有り難かったけど,他はちょっと距離を感じてしまった.

選択肢に「すがりつく」なんて自然に交じってるところが嬉しい.主体が女の子であるかそれとも都築真紀の男の子でもなきゃこういう言葉は出てきそうもなくって.

このごろは戦前の女性との逢瀬が好きすぎるので,昔の僕に対して申し訳ない気がする.

疏水太郎