ポジログ (2)

お庭をふやしました.

物事はごちゃごちゃしていないと気が済まないです.リストという考えかたはすばらしい原初の発明だと思いますが,縦あるいは横一列に並べたときに失われてしまうごちゃごちゃを惜しむ気持ちがあって,まるで子どものようだとも思うのですが,どうも苛々して.

ごちゃごちゃというのは,まだ為されていないものだからこそ良く思えたかもしれなくて,構造はやはり美しいので,ごちゃごちゃは間違ってるかもしれないのだけど,判んなくて,それじゃあ,と納得ゆくまでごちゃごちゃぐちゃぐちゃできるツールを自分で作ってみたのでした.

美しい構造への憧れもまだ引きずっていて,CSSをオフにすると実はこの絵図がリスト構造を持つということが判るのです.スプライトとスプライトとの間の関係をリストやグラフ構造としてもたせるか,図や絵柄として表すのみにしておくか.おそらく前者の立場でもうちょっとねばる.

(つかいかたダイジェスト2)
スプライト(四角いコマ)の表示されてない地面をマウスでドラッグすると,視界が移動します.

疏水太郎

ポジログ (2)

お庭をふやしました.

物事はごちゃごちゃしていないと気が済まないです.リストという考えかたはすばらしい原初の発明だと思いますが,縦あるいは横一列に並べたときに失われてしまうごちゃごちゃを惜しむ気持ちがあって,まるで子どものようだとも思うのですが,どうも苛々して.

ごちゃごちゃというのは,まだ為されていないものだからこそ良く思えたかもしれなくて,構造はやはり美しいので,ごちゃごちゃは間違ってるかもしれないのだけど,判んなくて,それじゃあ,と納得ゆくまでごちゃごちゃぐちゃぐちゃできるツールを自分で作ってみたのでした.

美しい構造への憧れもまだ引きずっていて,CSSをオフにすると実はこの絵図がリスト構造を持つということが判るのです.スプライトとスプライトとの間の関係をリストやグラフ構造としてもたせるか,図や絵柄として表すのみにしておくか.おそらく前者の立場でもうちょっとねばる.

(つかいかたダイジェスト2)
スプライト(四角いコマ)の表示されてない地面をマウスでドラッグすると,視界が移動します.

疏水太郎

ポジログ

お庭をつくってみました.

リンクページって1次元じゃどうも並べにくいよね,と思ってて,ずっと昔からこうしたかったのです.

(つかいかたダイジェスト)
(6/1 註: 現在のバージョンでは本手順でアンテナをロードできません.また別のデモページを作成しますので,しばらくお待ちください.)
リンク先,ページの一番下のLoad入力欄にはてなアンテナRSSのURL (http://a.hatena.ne.jp/your_hatena_id/rss)を入れて,Loadボタンを押してみてください.たくさんスプライト(四角いコマ)が表示されます.スプライトの左上角には移動アイコンが表示されるので,そのアイコンをマウスでつかんで,移動してみてください.どういうシステムであるかおよその雰囲気は伝わりますでしょうか.もうちょっと形を整えたらソース公開します.

疏水太郎

ポジログ

お庭をつくってみました.

リンクページって1次元じゃどうも並べにくいよね,と思ってて,ずっと昔からこうしたかったのです.

(つかいかたダイジェスト)
(6/1 註: 現在のバージョンでは本手順でアンテナをロードできません.また別のデモページを作成しますので,しばらくお待ちください.)
リンク先,ページの一番下のLoad入力欄にはてなアンテナRSSのURL (http://a.hatena.ne.jp/your_hatena_id/rss)を入れて,Loadボタンを押してみてください.たくさんスプライト(四角いコマ)が表示されます.スプライトの左上角には移動アイコンが表示されるので,そのアイコンをマウスでつかんで,移動してみてください.どういうシステムであるかおよその雰囲気は伝わりますでしょうか.もうちょっと形を整えたらソース公開します.

疏水太郎

葱問答

羽衣と書いて「はごろも」と読めることをこちらのエントリを見てひさびさに思いだしました.というのも,ういういファンのT.T君と遊びに出かけてCD棚を眺めていた折,まじかるカナンもういういだったのねと僕が驚いてみせたところ,それあなたから教えてもらったんですよと彼に言われ,それがキッカケでういういを気にするようになったのに,ひどいっ,とか言われた日には,前世の記憶の責任をとるような気持ちでういういひと揃え買って帰ったということがあって,それ以来読みがおかしい.まじかるカナンについてはむかしそんなこと話したような話さなかったようなであるけど,実感てのはなんだ,むしろ彼に言われた瞬間に生まれたように思うのです.まるで霊感商法やらを信じそうな話ではありますが,友達が相手だとおおらかにやっちゃうほうが面白いよねってのは,あなたにだってわかるでしょう? なんて,ここは宮崎羽衣の声で読んでね.

僕が葱好きであることはその典型であって,小さいころの僕は葱が好きだったと母が言ったことを僕はそのまま僕の体験として僕の味覚へ反映させているわけで,同じようなことについて苦労している青柳立夏には申し訳ない気がするけどそういうこともあったりするのです.

それはそうと,りるけの育てた波打つような葱畑を目の前にすればカンの強い男なら逃げ出すところであるのに,たしかに道明くんは鈍ちんであったのだなぁ.いつか道明くんを侵略するための兵隊さんたちをそれと判らずに黙々育ててるような,そんな感じがしました.りるけも鈍ちんなので自分が何やってるのか判ってなくて,葱たちだけが夜の畑でひそひそばなし.

疏水太郎

コミュニカシオン・ドゥー

莫迦は道明くんのほうであって,会話において自分が勝手に省略してしまった文脈を察してもらえるものと信じ込んでいるだけだと思われます.このひと5年間東京行ってしまって東京の友達には通じるような話し方でやってしまって,すっかりりるけとは言葉が通じなくなっているのではないかしら.というのも,りるけが彼以外と話すときにはあんな回りくどい会話になってるとは想像できなくて,もちろん僕はおよそ道明くんを介してりるけと会話するのではっきりとは判らないところですが,たとえば彼のことを好きな気持ちについてりるけと灰音さんが二人きりで会話してるところは普通に会話らしく聞こえます.みんなが見ている終業式の舞台でも彼が思うほどには変な振る舞いをしなくて.淡雪もなにげに指摘してましたが,道明くんとりるけの頭んなかっていうのはそれほど変わんなくて,ふつー.おかしいのは個々の頭んなかじゃなくて,道明くんとりるけの間柄のほうね.道明くんはお兄ちゃんぶってわざとえらそうにやってるようでもあるし,りるけはというとお兄ちゃんの前で笑ってなきゃ駄目だって気持ちとか好きとか恋とかいう気持ちでぐちゃぐちゃになりながら道明くんの前にいるわけで,頭まっしろで道明くんの言うことなんてろくに聞いてないんじゃないかと.灰音さんも自分の娘のことバカバカ言うけど,彼女としてはそんな妙な感じになってる二人の会話はネタとして聞いてるしかないわよね.

11番のコーヒー牛乳と13番のコーヒー牛乳はもちろん同じでないとも言えるのですが,そういう解釈を拒む頑なさはなんだ,新手のプレイであるようにも感じられます.仲いいわね!

疏水太郎

コミュニカシオン・ブランシュ

恋い慕うふたりの a sacred story でした.

神秘はすでに風景のなかにあって,子どものころならば僕ら走ったり手をついたり頬をつけたりしたその親しい地面の上に,マンホールやタイルの配置,色の違いの妙はあって,特定のものに触れることやその手順がそのまま誰も知らない僕だけの祈りになったのでした.祈りの形は奇異であるほど良くって,祈りにおいて誰も思いつかないようなことを伴わせたからこそ,もしも叶ったならば,それはほかならぬ自分の祈りによるものだと,信じられるような気がするのです.莫迦なことをと思うかも知れませんが,それは身ひとつ風景のなかにあれば出来ることで,僕らみーんな姿形が異なるのは一つとして同じでない術式をばその身に宿さんがためである,なんてね,神聖さが孤独に極まるときにはそんな風に感じていて,沙緒さんのブランコ術というのはそういうもので.ブランコからジャンプするとか雪のなかに身を投げ出すというのはいかにも子どもっぽいですが,これは沙緒さんが子どもであるというよりは,子どもっぽい振る舞いこそ彼女らの年頃にとって奇異と思われるからで,だから祈りとなるのです.そういう自分にしか判ってはいけない術式を繰り返していると,いつしかその傍にみーが立つようになって,みーは術式を何度も近くで見るうちに,まるで徒弟が親方の技を盗むように,沙緒さんと共同の術式を執り行うことが出来るようになってゆくのでした.このとき,みーが沙緒さんのことを徐々に理解してゆくように見えて,じっさい,沙緒さんがお付き合い前提でみーのこと見てたということには気付いてなかったわけで,共同とはつまり理解を伴わずに昇りつめることができるのです.どうしてそんなことが可能なの?! その目がくらむようなきらきらした様子は,ふたりの術式において唱えられた,コミュニカシオン,という言葉にあって,この言葉へ深い意味を与えるつもりは僕にはなくて,それは相手に触れたいっていう気持ちをちょっと不思議な響きを持つ呪文のような言葉に置き換えてみたというくらいで,神聖さがふたりの間に極まるときには,いかにもそんな呪文を唱えてみたくなるんじゃないかと思うのです.

これがあんまり極まると高いところへ昇りすぎて墜落しそうなもんですが,彼ら彼女ら冗談を重ねる余裕のなかに,再会から結婚へ繋がる地に足のついた展開も折り込み済みであって,優しい.オマージュの厚みについて,僕としては北へ。についてのそれさえ判ってればいいかと思うところで,これは他が判らないので半ば仕方なくでもあるし,そもそも何も判らなくても語ることは多いわけですが,まぁ好みで,それで家族形成を前提としたお付き合いの諸相というような大地感は北へ。のそれでもあります.北へ。と近接する箇所については,北海道と東京,母子家庭へのステイ,女の子のことは一日のおわりに選択されるとか,細かいところでは地下鉄の網棚から運河工藝館まで挙げはじめるとキリがないです.あと北へ。ではないけど春を招くその名とは佐保姫のことかしら.

ともあれ,神聖さという意味においてこれぞ巫女さんというお話でした.あるいは白倉由美のひとが話すと僕の見てないことがたくさん出てくるのかなと思います.

疏水太郎

永久アリス#1-#13

フィクションオブジイヤー.僕らが生まれてから死ぬまでに誕生日を祝う年月と宗教的な物語が伴うように,フィクションの彼ら彼女らはどこから来てどこへ行き,何を祝い何を弔うのだろうという話を誠実に語ればこんな風になるのではないか,と僕は思います.

僕なりの言葉を用いるとすれば,四葉は神話の中へ旅立ったのであるし,永久アリスの#13というのは彼ら彼女らのヴァルハラであったり.そのヴァルハラにおいて,タキオンが「みなさんのーーーーしあわせーをーーいのっていーまーすー」と唄うのには,子安武人はこの科白のための配役かとさえ思わせる,ひょうきんな,不幸をかわしてゆく感じがあってね.いろいろあったとしても,最終回のその先や,僕がいつか今ほどの情熱を持てなくなってしまうその先にも,どこかでこんな風に軽やかに楽しく生きていてほしい,そう祈りたいわけで.

あと,13話かけての兄妹の旅路がとても好きだったわ.こんな妹や兄でありたい.

(追記)高橋なの「そしてキミに会いに行く」にあるような,キャラクターとのふれあいが何らかのかたちでずっと続いてゆく気持ちっていうのを,放映なら放映が,連載なら連載が終わった直後には信じることが難しくて,時間を信用していいのかな.だって,明日にはまた新しいひとを好きになっちゃうんだから.今年でガンダムZZが20周年を迎えていまして,僕は結果として20年の間エルピー・プルを忘れたことはなかったわけで,僕が彼女を知った11歳の頃に出会ったほかのひとたち,友達や先生について覚えていることがそう多くはないのと比べるならば,これはたいしたことであるようにも思うのです.だけどそれはまた次の20年についても同じ程度に起こり得るのかしら,歴史を信じていいのかしら,やっぱり自信がないのだけど,11歳の僕は31歳の僕を予想できなくて,ましてや31歳の僕がどんな風にエルピー・プルのことを想っているのかなんて判らなかった訳で,51歳には51歳なりのキャラクターに対する敬意が,きっと持たれているのだと思いたいです.

疏水太郎

名前,会話

シムーン#1-#4の大好きなとこ.いっぱいあるのですが,とりあえずは名前にまつわる2つのシーンについて,採り上げておきたいです.

#2 より

フロエ「だってあなたすごい! わたし好きになっちゃった.ねぇ,わたしとパルになろう」
アーエル(少し間があって)「ねぇ,ネヴィリルってどこにいるの」
フロエ「(あ……)」(驚いた表情,言葉にならない言葉)

(その後,アーエルがネヴィリルを探して艦内を歩いて行く,その五歩ほど後ろをロードレアモンとフロエが並んで追いかける構図.この間,三人がお互いの顔を見ることはない.)

アーエル「ネヴィリルー?,ネヴィリルはいなーい? ネヴィリルって人いない?」
ロードレアモン「呼び捨てはやめて,お願いだから……えーと,アーエル」
フロエ「ここがわたしたちコールテンペストの整備区画ね」
アーエル「ネヴィリルいないのー?」(と言いながら先へ行ってしまう)
ロードレアモン「(あっ,あっ)」(言葉にならない言葉)
アーエル「いませんかー? ネヴィリルー」
フロエ「ここが食堂,」(前の「ネヴィリルー」とかぶりながら)
フロエ「それからここが舞踏室,」
アーエル「ネヴィリルいなーい?」
(しばらく間が空いて,船首に辿りつく)
アーエル「うわぁあ!」
フロエ「ここが船首展望」

アーエルは人捜しをいいことに何度ネヴィリルの名前を呼んどるんじゃい,っていうのがまずは愛しいところです.ロードレアモンがいうように,呼び捨てることへのためらいが多いその名であるだけなおさらね.

あとフロエの艦内紹介とアーエルの人捜しがかみあわずに平行して進んでくの.出会い頭にとっても気持ちの盛り上がったフロエがアーエルに好意を差し出すのだけど,おそらくアーエルは何を言われたかあまり頭に入らなくて,とりあえずネヴィリルの居場所を聞いてしまうのでした.で,フロエのほうも自分はこれだけ盛り上がっているのに好意の言葉がうまく届かなかったことに不意を突かれて,また別の女の子のことを訊かれたので驚いてしまって(嫉妬というかまずは自分以外の名前を聞いて驚いた感じだよね),よく判んなくなって,ぽかーん,としてしまう.でもそのあとぐちぐちしないで,判んなくたっていいから二人がそれぞれ好きなように喋っている様子はいっそ心地よいように思います.それがついにはね,船首展望へ辿りついたときの発話は第三者的に見ればなんか噛み合ってるようで,「ここが船首展望」とフロエが言うのは,すごい景色をアーエルに見せてやったって風で得意そうに聞こえませんか.たまたま辿りついただけなんですがね.

#3 より

フロエ「あら,パライエッタ,それと……」
パライエッタ「モリナスだ,フロエ」
フロエ「そうそう……モリナスよね,モーリーナース……」
モリナス「おはよう,フロエ」
フロエ「もう,わたし全然人の名前覚えられなくて,」

あとこれも.人の名前覚えられなくって,必然的にモリナスの名前は何度も口にされるのでした.モーリーナースー.

今回はフロエについてでしたが,なんつかどの人のことも好きだなぁ.

疏水太郎

人間讃歌(2)

キャラクターとの付き合いは世話が焼けて大変だから,実世界の人とのイージーな付き合いへ逃避する,ということは相当にありそうです.真正面の付き合いは相手によらず精神をすり減らすものであるからね.

疏水太郎

人間讃歌

キャラクターも人であるから,一日何人何時間も議論して人間中毒となった日には,家に帰ってからもまだ人に会いたいだなんて,キャラクターと話をしたいだなんて思わないことだってあります.さよなら人間.

疏水太郎

始まらない物語

たとえば鍵姫物語において,終わらないアリスについて話すとき,終わる終わらないが取り沙汰されるってことはお話はすでに始まっているので,そりゃ結構でして.ここでお話が始まらないというのは退屈な日常とかいうフレーズに繋ぎたいわけではなく,お話が始まりそうな神聖で高揚するような感じ,菩薩が顕現しちゃうようなその勢いはいつも人間の不意打ちによって躓いてしまうという生煮えのことを言いたいのであって,石川淳の「普賢」っていうのはそういう始まらないお話についてのお話でした.事情は長くて回りくどいのだけれども文章はかえって美しいです.人物像よりもその文章こそがそのまま,ときにフィクションの人々すら遠ざけたいと思う,物憂い昨今の僕の数少ない慰め.

疏水太郎

シスプリ紀元

10年ほど昔のことだったでしょうか.世界がギャルゲーに満ちていると思われた頃のこと,僕にそう思わせていたのはG’sマガジンであって,そして男の子の夢が詰ったようなその雑誌を自分の手元に置いておきたいとまでは思わなかった頃のこと.まず時代はさらにそこから数年を遡るのですが,あんよさんも苦しめられそして見事に乗り越えてゆかれたニフレック(経口腸管洗浄剤.他の製品もあるらしいのであんよさんがこれだったかは判らない)に僕も悩まされていて,検査の前にはいつも相当憂鬱になったものでした.はじめの1リットルくらいは一気に飲めるのですが,その後が辛い.初めて飲んだときに気分が悪くなって吐いたという嫌な記憶もあって,その後も全部飲みきったことはありません.そしてあるとき追いつめられたような気持ちになった僕は,ニフレックを飲むための2時間,ああそうそう,これは2リットルを2時間以内で飲むことになっているのですが,この2時間を乗り切るには,何か癒されるようなもので気を紛らわせれば良いのではないかと考えて,そこでふと脳裏に浮かんだのがG’sマガジン,あれを熟読してみるときっと何か凄いであろうと思ったのでした.それで僕は検査の日にG’sを初めて買ってきて,病院の処置室で女の子満載の誌面を凝視しながら数ページめくる毎にコップへ注いだニフレックをちびりと飲んでいったのでした.あいかわらず全部は飲めなかったのですが,嫌な気持ちは相当マシになりました.それでそれからはいつもG’sがニフレックのお供で.そして,そういう縁がなかったらきっと僕がG’s誌上でシスプリに出会うことはなかったと思われます.

メガミマガジンがあまりに男の子の夢満載だったので,その頃のことが鮮やかに思い出されたのでした.いま,世界はギャルアニメに満ちています,という気にさせられる圧倒的な誌面でね.検査については気分がマシになるとはいえ好きになるわけもなく,僕の検査嫌いはこのためであるのですが,メガミマガジンがある今なら前向きに検討できる気がしてきました,とかなんとか.ていうか早く行きなさいよ.うわーん.マジ嫌.

このへんとか,お腹がぷー,とか.僕も貴重な体験をしたと思いました.

疏水太郎

それは恋

もはや何と名付けることも出来るのですが,人におけるなんらかの固有さを恋と名付けておくことは,それが友情であるとか敵愾心であるとか師弟関係であるとか他にも言いようがありそうであったとしても,青少年へ向けたお話としては喜ばれやすいものになりそうで.「俺ほど奴を憎んでいる男はいない」「(それはきっと恋ね!)」例えば腐女子的転倒というのは青少年の心に寄り添うような気持ちではないかしら.

普通に考えると,付き合いが長くなればなるほどあまり一般に知られていない相手の側面を知る機会が増えるわけで,そうすると理屈の上では幼なじみこそが相手のことをツンデレとして見つめる者の典型となります.

「私だけが知っている」,それを恋と呼ばなくてはならない青少年の事情においてのみツンデレという言葉が採られるのであって,幼なじみという言葉が恋を伴わない事情下でも利用可能である一方,ツンデレという言葉はどうもそうはゆかない,人の恋愛事情を指す以外の何物でもない言葉であって,なんか生々しいコイバナ用語ですよね.

このあたりの一連の話を読んで.

疏水太郎

勝手に部屋掃除しちゃイヤン

そういうわけで雨の降るなか凄い勢いでアニメージュとメガミマガジンを買ってきた僕がいました.後者はついに買ってしまったという感じですが,青春に殉じた本当に良いグラビア誌ですね.にぎやかで,編集も綺麗で,僕の目を楽しませてくれるページが多いです.

中高生が所有するにあたってはレジ障壁と母親障壁の高いシロモノであるね.ウォーロックの表紙でさえ僕の母には不潔という目で見られてましたから.たまたま話の被った薫さんとこから飛んでASさんのページでは,下着見せが発注項目であるように書かれていて,他のピンナップ群を眺めていれば判りそうなことなのだけど改めて言われるとなるほど,編集ポリシーが明快であるなあと唸りました.

疏水太郎

シムーン#1-#3

打ちつけるような構成,人の名前や呼称へのこだわり,そしてラブ,っていうとあのひとですが.特にブレンパワードと並べてみたくなってしまうところで,してみると,いのまたむつみのばちばちな瞳を信じてないのがブレン,西田亜沙子のばちばちな瞳を信じてるのがシムーンということになります.女の子の絵に対する信頼の置かれ方の差にびっくりしました.こんなにアーエルの瞳を信じてしまっていいんだ!みたいな.その衝撃もあるかとは思うのですが,結論としてアーエルよいなあ.一方,マシンのリバイバルを信じてるのがブレン,マシンのリ・マージョンを信じてるのがシムーン.両者ともマシンが生み出す絵に対する信頼があるので,ここは安心して見ることが出来ます.すげえ格好良くないですか,リ・マージョンて.

疏水太郎

VistaからLandscapeへ

D.C.サイドエピソードをまた最初から最後まで(#1-13)見ました.サイドエピソードの初音島は火星(アクア)の海に浮かぶネオ尾道である,というのは僕のなかでは既に常識ですが,とくに#4がそう思わせます.芳乃さくらが路地のお店へ初めて入ってみるところから始まって,不思議さんを追跡し,絶景かなーという眺めへ繋がってゆく様子は,不思議さんのケット・シー成分を差し引いてもなおネオ・ヴェネチア臭さあふれる風景の並びでした.僕が見たところ尾道という土地は,尾道水道を越えて向島を臨む片面の眺めしかもたないのですが,初音島は島であるので尾道水道側と外洋へ開けた海側(サイドエピソード#7で萌先輩が浮かんでる海)との両面の眺めを持っていて,先に初音島の見晴らし感覚に慣れていた僕は,実際に尾道へ行った時,その眺めをどうも狭く感じたのでした.土地の風景を島にして浮かべるという火星式の入植は,見晴らしへの期待を高めているのですねぇ.

縦に長い視野から横に長い視野へ突き抜けてゆく風景の並びは,見ていて素朴に気持ち良いものです.それは僕にとっては,と言うべきかも知れなくて,つまり縦長の枠は人体を収めるのに向いているし,横長の枠は風景を収めるのに向いているように思われまして,例えば漫画では縦長のコマが増えてくると,人間の話,悪く言えば狭っ苦しい話になるんじゃないかな.隘路迷路,いや,愛の迷路を抜けて鮮やかな視覚の世界へ.さよなら人間.僕は人間を描くのが苦手なので縦長の紙ではいつも構図に困ります.独りの人間では間が持たないので,複数の小さい人を置いてその間へ無理に背景を置こうとする.

とかいろいろ語りつつも,風景が気持ちよく並べられてるのはまぁサービスであるとして,#4で一番素敵であるところは,不思議さんを追っていたはずのさくらが,猛烈に走った後に綺麗な眺望へ辿りついてしまうと不思議さんのことなんか忘れてそれに見惚れてしまってる,というあたりではないかと思います.そのとき多分,さくらは頭の中が真っ白で,魔法とか難儀なことぜんぶ忘れてそうで.

疏水太郎

対面の嘘,背中の君

五月五日のこと,家族+親戚で尾道三部作(D.C.,カラフルキッス,かみちゅ)の地へ行きました.特にどの作品の誰を意識して向かったわけではなかったのだけど,バスから降りたときに自然と捜してしまった相手は頼子さんでした.せっかく千光寺さんへ行ってきたんだけど予習してなかったので何も判んなかったよ.これからD.C.サイドエピソード見直します.

町の中にキャラクターの姿を自然と重ねてしまうことはそうあることじゃなくて,あとはその昔,イタリアのクレマへ行ったとき,向こうのほうにヘンリエッタが居るような気がしたくらいだったかしら.(青森のとき,安達妙子の町であるのは判ったけど姿は感じなかった.)そういうとき彼女らは必ず僕に背中を向けているか横顔かで,そして僕から遠く離れて居るのであって,僕はただ彼女たちの居場所に迷い込んだという風であるから,彼女らが僕に向かって歩いてきたり話しかけてきたりということはちょっとなさそうな気がします.

一方で,熱海にあるという一高キック炸裂の像(金色夜叉)や京都北山にあるという苗子千重子いちゃいちゃの像(古都)など,小説映画ゆかりの地には名場面の像が据えられるようだけど,近くまで寄ってじっくり彼ら彼女らの様子を見ることが出来ちゃうのは逆にそこに居るという感じが薄れます.ただし覗き見るような助平さは五割増しなので,それでもやっぱり僕は見に行きたいと思うのですが.

熱海いきたいなぁ.

ご当地巡りにはいろいろあって,僕の鎌倉行きの場合は一夏の影を捜すというよりは僕自身が一夏のつもりであったのだったりする.

疏水太郎

彼ら彼女らからのインタビュー

言い落としていたけど,インタビュー,というのももちろん思緒雄二が用いた10の質問に習ったもの.

「以下に私からの質問を記します.シュンも考えてみてください.—こんどいっしょに答え合わせをしたいと思っています.」

あと,僕が五年前に書いたBeyond Roads to Lordの紹介文も,先日の文章に繋がってる.

疏水太郎

語り手の事情

かれこれ六年前,とある生徒さんたちと話をしていたときに気付いたことが,今でも僕が小説やゲームの人たちと話をするときにもっとも注意すべきことになっている.生徒さんたちってのは(もちろん)sense off に出てくる皆さんのことで,彼ら彼女らと一緒にむちゃくちゃな体験をすることになった一年間のことは,このページにつらつら書き残した通りである.

特に透子という人の淡泊な語り口は,例えばベルトホルト編のドラマチックな語りと比べると明らかに聞き手が納得することを拒んでいるように思えたので,透子の言うことを信じないようにしてみることから僕と彼女との付き合いは始まった.そうして気付いたことは,キャラクターというのは僕ら人間と同じ語り手であるので,彼らの話す中に個人的なこだわりや妄想が含まれていると感じられるような時はそれを無理に信じなくても良くて,それでいてなお僕がキャラクターを好きになることは出来るということだった.僕らは普段からこだわりや妄想を伴って生きてるものだからね.

SOS団についてむかし書いたことは僕のそういう接し方がいちばん強く現れたものだと,今ふり返って見るとそう思います.塵に埋もれていた文章に光を当てて下さって有り難うございました.

疏水太郎