『光車』注

まずは「天沢退二郎の十冊」をリストのみ挙げさせてもらうことにする.

  • 「宇治拾遺物語」
  • 上田秋成「雨月物語」
  • 内田百閒「冥途」
  • 吉岡実「ムーンドロップ」
  • 宮沢賢治「風の又三郎」
  • 泉鏡花「沼夫人」
  • 坪田譲治「童心の花」
  • 石川淳「鷹」
  • 深沢七郎「楢山節考」
  • 花田清輝「『吉野葛』注」
     (ただし葛の字は異体字「ひとくず」)

以上は幻想文学33号の特集「日本幻想文学 オールタイム・ベストテン」において寸評とともに列挙されたもので,順不同とされている.一冊と数えるにはふさわしくないものも交じっているが,「?の十冊」というのは「長門有希の百冊」を見るときと同じ親近感を持って僕がそう勝手に呼ばせてもらっているところで,これを一つずつ読み進めているのは「長門有希の百冊を実際に読もう」に習ったと言っていい.

うち,「雨月物語」「冥途」「沼夫人」「」については既にいくらか述べた通りであり,水や水辺の様子が出てくる毎に「光車よ、まわれ!」に代表される天沢退二郎の好む風景を連想してきた.あるいは登場する女性の姿にルミや龍子の姿を重ねてきた.これまで言い落とした「風の又三郎」について同じようにするならば,谷川の岸に位置する学校から始まる物語が山河を一巡りしてまた学校の教室へ戻るとき,風は教室のバケツに黒い波をたて,土手の上を,霧のなかを行き,雨上がりの栗の木の枝葉を揺らし,川辺で夕立と交じり,嵐となり,ついにはもと居た教室の床をざぶざぶ濡らすという水の巡りを伴うことがよく判る.

「鷹」については以前,符合するところの多さから光車の水源地であるとしたが,何度も言うように水源地というものは妖しい.おしなべて源というものを僕らは還元することが出来るだろうか.言葉の定義を辞書までに留めておくのが僕らの暮らしであって,その先のこと,言葉の定義文に含まれる言葉を遡及的に定義し求めるのは止めよ,さもなくば死して後も貴公の魂は答えを求めて宇宙の暗黒を無限にさ迷い続けることになるぞ,とまあ,大抵の坊主ならばそう言うのである(秋山瑞人「猫の地球儀」).谷崎潤一郎「吉野葛」では,南朝の物語のルーツを求める谷崎の旅は吉野川の水源地へ向かう旅や友人津村の母方のルーツを求める旅と重なりつつ,年寄り(「おりと」)のおぼろげな記憶と津村の母親への思い入れが綾なす曖昧さにしか行き着かず,源たる地とはその曖昧のなかで津村とお和佐との結婚へ辿り着くに留められる.「吉野葛」において思い入れが定義を留め,そういうことにしておく,その様子は,憧憬する心が母親を「山村のシンデレラ」(「『吉野葛』注」)と成すだけでなく,何の奇もない鼓が家宝の「初音の鼓」として伝えられることにも現れる.「光車よ、まわれ!」も大きな流れは龍子の祖父へ向かう旅であり,そこにルミが自分の亡父や先祖を思わせる人々へ向けて水路を行く旅(ルミの冒険)が平行する.この旅の結末もやはり,一郎にとって夢と思えるような風景であり,ルミが目にした真相らしい劇とその解釈は「ひとりごと」として共有されないままになる(ちくま文庫版,p.306-307).

「『吉野葛』注」では谷崎の「吉野葛」について,まずは「南朝の子孫である自天王という人物を主人公にした歴史小説をかくつもりで、いろいろと文献をあさったあげく、実地調査のために吉野川をさかのぼり、わざわざ、主人公の住んでいた大台ガ原山の山奥まで出かけていった作者が、流域の風物をながめながら、回想にふけっているうちに、いつのまにか、かんじんの自天王の話のほうはあきらめてしまい、その地方の出身者である、友だちの死んだ母親の話に熱中しはじめる、といったようなていたらくである。」(講談社文芸文庫版より引用.原文では「ガ」は小字.)としており,「これからわたしが、『水経注』にならって、「吉野葛注」とでも題すべき作品をかくのは、もっぱら谷崎潤一郎の小説のなかで使われなかった自天王関係の材料をモッタイないとおもうからであって、」と,「吉野葛」の元ネタについて列挙し始めるのであるが,花田清輝が「『吉野葛』注」の執筆にあたって谷崎を評したことはそのまま彼自身にも当てはめられてゆき,「吉野葛」の風景をながめながら,谷崎への想いにふけってるうちに,いつのまにか,かんじんの自天王の話よりも谷崎潤一郎という可愛らしい人の話へ熱中しはじめるところが愛である.

水源とは意味の奈落であってね.そのとき助平な脇見が僕らを思い留まらせる.

龍子のスカートについては前に触れたが,一方でルミはズボンであり,いろんなものを穿いてくれるのが脚を意識させて良い.スカートを脱いでズボンを穿いたところから彼女の冒険は始まる(p.122)などと言うといかにもであるが,その後,濡れたので他人のトレパンに穿き替えたり(p.150),ズボンみたいにボートを穿く(p.233,p.240),すぽっと全部脱がされる(p.250)というのはまったくズボンの醍醐味であり,いちいち脚を気にさせるところである.このあたりは龍子のスカート描写も併せてどうかしている.ただし,一郎がルミに恋していることは,初対面のときからルミがキラキラしたすてきな眼を持っているように見えたり,かがやくばかりにわらったように見えたりすることや(p.138),なにかにつけて瞳がかがやいてまぶしかったり(p.139,p.178,p.308),彼女の姿はあざやかに目にとびこんでくる(p.201)というような恥ずかしいまでの光として描かれるため,ズボンを云々するような僕の助平な品性は申し訳ない気がするところではある.

疏水太郎

青木正次全訳注「雨月物語」より,上田秋成「白峯」「菊花の約」

荒ぶる全訳注.事態をドラマチックに転倒して読むその語り口が大変好み.

雨月ってほんとにこんな話なのか? と迷うほどの饒舌な訳注釈であるが,セイゴオ先生による「『雨月物語』はどう読もうとおもしろいが、」という一文をみるに,雨月はその読まれ方においても伝奇的であるのかもしれない.

雨月物語も天沢退二郎が選んだ10冊の1つということで読んでいるため,今木さんとは偶然ネタが被った.爽子ちゃんのように浮かれて言うならば「シンクロ!」である.以上,全読破していないが被っているうちに書き残しておきたい.

疏水太郎

まじぽか #5, #7, #8

#5 看護師のお兄さんは素敵である.優しくて笑顔で頼もしい! 作中では献血のお兄さんだけどセンスとしてはそれ.この感覚は最近病院のお世話になったことのある方なら判って下さるのではあるまいか.

#7 ごく個人的にはモンキー・パンチの「先公はなび」という漫画を思い出す.僕が小さい頃,毎日小学生新聞に連載されていたものだ.先生(男)が実はロボットで,それを知った子どもたちにいじられていろいろイケナイ形にされてしまう.小さい頃はそういうものになりたくて,例えばキカイダーになりたかった訳であるが,ここではキカイダーになってどうされたいか,というところにまで踏み込まれている.つまり,子どもたちが悪戯してとかいじってとかいう触れ合いによって分解改造が行われるところの助平を,僕の幼心に植え付けていったのであった.

鉄子ヴォイスが良い.

#8 鉄子版エンディング.鉄子ヴォーカルにたいへん癒された.

疏水太郎

未読

呆けながらやっているのでなかなか日にちが進まないのです.リターンキー押すのも忘れて,これが紅葉の曲なのかー,とかこれが桜の曲なのかーとか聴き入っているうちに1時間が過ぎてゆくという具合.

つうわけで,全部終わった後に,また.

「かえで通り」然り(むっちがまだ)事前に神聖視してしまうと手をつけられなくていけない.

疏水太郎

竹宮ゆゆこ「わたしたちの田村くん(2)」

会えない間の気持ちを綴ると一冊の本になっちゃいました,というような一冊.人は会話しないほうが饒舌であって,僕としては田村くんが松澤と会話できない分だけたくさん田村くんの声を聞いたように思った.

今日,幸運にも季節の服がどわっと増えて,貴理ごっこすら出来そうな勢いとなった.あるいは相馬ごっこと言ってもいい.あーん,あしたどれ着てゆけばいいのー,と床に並べる切なさよ.あしたのことを考えるのもまた饒舌.あしたと会話は出来ません.

伊欧の振る舞いが高浦くんに未成熟として見透かされているのがちょっと嫌であった.見透かされるのは前回と同じであるのだけど,僕のほうがこのところ自分が伊欧のような立ち位置であるように思うから,舐めるような愛しさが傷穴から溢れ出た.

涙夜

魔法遊技

年寄りの昔語りであるのでご注意を.

たとえば貴方が男の子で,幼いころ側にいてくれた佳人は夢の彼方へと消えて,いまではある女の子が側にいて,だけどその二人が重なるように思えたとして.または貴方が女の子で,幼いころ側にいてくれた猫は夢の彼方へと消えて,いまではある男の子が側にいて,だけどその二人が重なるように思えたとして.そんなとりとめのない空想から始めて,そこに空想に憧れる人たちを集めて,心と呼べるような何かを創作したいと,たぶん思っていた.恋い慕う心であるとか,姉弟の気持ちであるとか,そういったものをお話としてようやく確認するためのセッション作りに熱中していた.たとえば貴方は夢を見る.溺れる誰かを助けている.その相手は夢の佳人か隣の女の子か,あるいはそのどちらでもなかったか,そしてそれはどういう気持ちの流れに基づくものであったか.インタビューのような会話と選択とその理由づけの繰り返しが心と呼べそうな何かを叙述させて,その軌跡はただそれだけで魅力的な物語であると思えた.(なお,夢を用いたのは精神分析の影響ではなく,直接には門倉直人流の名残であった.)

客観的に判断できない選択について数多く尋ねることが重要と思えた.今にして思えば1995年から1997年まではプレイヤーへの形式ばらないインタビューが中心であったのに,ONEが発売された1998年以降ノベルゲームへ深くのめり込むにつれて,選択肢を用いたインタビューが人の心を形成させるツールとして有効であると僕は信じるようになったらしかった.

サークルの運営は,駆け引きの巧妙をボードゲームで鍛えるとか,振る舞いによるキャラ立ての仕方を学ぶといった社会的な技術の必要によって支えられていたが,社会以前の僕には居心地が悪かったので,僕は僕でそんな居心地の悪そうな人であるとか社会以前に戻りたい気分の人が集まるようにして,個々人の思い出や思い込みをそれぞれ語ってゆくだけのようなセッションをすき間産業的にやらせてもらっていたのであった.しかし,当時30人前後メンバのいるサークルであったため,運営上,メンバの振り分けはまず5卓か6卓あるセッションのマスターがそれぞれ内容をプレゼンし,それを聞いたプレイヤーが希望を出す形をとった.そして,あとは交渉やらじゃんけんやらで面子が決定された.そこで気が合わない人(自分語りしない人,子どもっぽい話をすると笑ってしまう人)がやってくるとうまくゆかないので,僕はあらかじめ予防線を張って,ビラを配ったり,みなで散歩することに時間をとったり,詩のようなものを創らせたり,水や死に関する思い出を語らせたり,そんな風にセッションが私的なもの,秘儀的ものとして感じられるよう工夫した.そうするうちに,なんやかや言いつつ僕もそのサークルの風土に生きる人間であったから,魔法の術式,つまりローカルな雰囲気の形成手法を技術としてサークル内に流通させるべきであるとか思い始めて,自己嫌悪に陥ったりもした.

当時のセッション紹介・配布資料はこちらに掲載している.今では首をかしげる箇所が多いが,「ローカルなコミュニケーションの優位」と「いつもの感じ」という言葉は採りたいと思う.ついては,こちらの文章(http://astazapote.com/archives/200011.html)が明快かつ名文であると思うので僕が言わなくちゃならないことは上のような自分語り以外にないのだけれど,ともかく僕みたいな電波っぽい人がわざわざWebArchiveから掘り出してしまってごめんなさい.

疏水太郎

石川淳「鷹」/天沢退二郎「光車よ、まわれ!」

父の入棺に際して僕らが添えたのは,洋画のDVDと吸いさしだったマイルドセブンの箱である.循環器の病であり,煙草がそれを悪くしていたと後から判ったが,父とそれとは切って離せる間柄ではなかった.もう思う存分吸えば良い,と手に持たせてやったのであるが,最近の煙草であるから「喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます」云々と表示されていたのは桐棺の中であまりに馬鹿げた構図となった.

石川淳の「鷹」では,公社の男が万人の幸福のためのもっとも上等のたばこを学問した.こちらはプライドがあって胸がすく.ただし,そのために男は公社を追われるのであるが…….

本作も例の天沢退二郎が選んだ10冊の1つであるが,僕が読んだのはそのためではなく「さくらむすび」から繋がりを辿るうち行き着いたもので,10冊に含まれると気付いたのは後になってからだった.ここで,たばこ密造団あるいはそうしたまつろわぬ者共の首領は少女であり,キューロットから出た男の子のような脚,マントをなびかせて空に舞う影は巨大な蒼鷹の姿を成すといった,かぶき好みで描かれているのは,光車の龍子を思い出すところである.龍子については「黒っぽいスカートがひらいて,うすぐらい部屋の中にまるで黒い鳥が立ちあがったように見えた」(「光車よ、まわれ!」第二章)とあるが,これをかの首領と並べてみると,鳥になぞらえる点は等しいとして,あとは少女の驚異をズボンから伸びる脚に見るかスカートの中に見るかという助平大戦である.男ってやつは…….また,小学生の龍子が最後に鞭をふるいだすのには驚いたものであったが,これは首領の少女が鞭使いであるのをそのまま持ってきたように思われる.

明日語も地霊文字の源流であるなぁ.運河の風景も含め,総じて光車の水源地であることがよく判る.

あと,龍子さんのスカートといえばもちろんこのひと

疏水太郎

内田百閒「冥途」

子どもの頃の話,であるような.語り手は「私」であるから年のほどは自明でないことがあってね.周りの大きい人はものを判っているようなのに自分は勝手が判らない.土手密度が高く,おおざっぱには7/18(土手話数/全話数)と算出されて,見ていると土と手とを並べた字面がいいように思われてくる.雨上がりの砂場で土まみれになってた頃のことが思い出される.

子どもの頃の,というのは嘘で,僕が今でも子どもだなぁと思う話であったりする.

こちらも天沢退二郎が選んだ10冊の1つ.川や堤防の風景といえば,最近では「侵略する少女と嘘の庭」か.

疏水太郎

あかほりさとる/桂遊生丸「かしまし」1-3巻

寄り添う(3巻 p.178)という言葉は縁が深まった様子を示すのに便利であって,僕も使いすぎのきらいはある.まず辞書的には「ぴったりとそばへ寄る」(広辞苑第五版)という身体距離の詰めしか意味しないのだけど,人が人のそばへぴったりと寄ったとき,そのうち何が起こってしまうかということはよく知られている.同じ場所にずっといると,関係してしまうのである.ただし,それを縁と呼ぶのは親子であるとか恋人であるとか一定の関係を指しがちであるため,言葉で説明するのは難しいがしっくりくる身体距離や身体配置があるというときに,寄り添う,という言葉がうまく当てはまる.たとえば,三人が一緒に居るとき,やす菜ととまりがはずむの左右の特定の側にいるほうがしっくりくる,っていうのはありそうで,僕はやす菜は左なんだとなんとなく思っていた.これは次のような調べ方だと極端な差としては出ないのだけどね,それでも三人の中にはきっとそういうのがあるんじゃないかな.

「やす菜ととまりははずむの左右どちらに居ることが多いか」

一コマの内に三人の姿があるという統語的な制約と,二人がはずむの側で左右に居るという意味的な制約のANDをとってコマを選択している.コマ内の人物配置は紙面座標上の左右ではなく,はずむから見た左右を採る.コマの区切りの判断はじっさい意味的であるが,枠線の範囲を基準に決めた.

表記は「巻数ページ数(コマ数)」.該当するコマが1つしかない場合はコマ数省略.

(A)はずむから見て左にやす菜,右にとまり

  • 1巻p.88,レジの前の三人
  • 1巻p.172(コマ3),画題を捜す道行き
  • 2巻p.11,とまりたちを誘うはずむ
  • 2巻p.34(コマ1,5,6),はずむを海辺へ誘う二人
  • 2巻p.54,55(コマ2,4),お昼ごはんのテーブル
  • 2巻p.59(コマ2,5),60,62(コマ1,7),65,73,74,肝試し
  • 2巻p.98(コマ3,4),神泉家夕食の席
  • 2巻p.102,104,105,はずむの机を囲んで
  • 2巻p.131,133,はずむの机を囲んで
  • 3巻p.86,花火を楽しむ三人
  • 3巻p.132,133,はずむにプレゼントする二人

(B)はずむから見て左にとまり,右にやす菜

  • 1巻p.173(コマ2,4),写生する三人.ちなみに7話表題は「少女三角形」.
  • 2巻p.28,海へ行く電車のシート
  • 2巻p.49(コマ4,6),50,海から帰る電車のシート
  • 2巻p.77(コマ3,4),お昼ごはんのビニールシート
  • 2巻p.103,104,夏祭り,リンゴ飴か?たこ焼きか?
  • 2巻p.122(コマ1,3),綿菓子ふたつ
  • 3巻p.92,94(コマ1,2),線香花火
  • 3巻p.97,98,はずむの机を囲んで
  • 3巻p.130(コマ3,4),はずむを迎える二人

三人にとって身体配置が偶然であったかなんとなくであったか意図的であったかは上のようなラベルをつけてもよく判らないが,読み手がそれを感知する手掛かりはこれくらいあったのでないかと.1巻p.172では,声を掛けた直後(コマ1)は左がとまりで右がやす菜だが,歩いているうちに左右逆の身体配置(コマ3)が行われたように見える.1巻p.151,2巻p.38にも代表されるよう,なんの準備もなく偶然二人から三人へ増えた場合については,少なくとも新たな身体配置が行われる以前であると見てカウントしなかった.そもそも,紙面上の左右にも僕らは影響されるだろうし,1巻表紙や3巻口絵のような絵も効いているが,試しにやってみたというところである.

初めの目的とは逸れるけれど,列挙してみると二人がはずむの両側に寄り添ってたのがよく判るのでさ.それで,3巻p.74ではやす菜の両側にとまりとはずむが寄り添って三人手を繋ぐという絵も際立つのでさ.寄り添うっていうのがどういうものなのだか伝わってくるでしょ.

アニメのほうはOPだけを見ていた.女三人寄れば姦しいではなく手を繋ぐ(女女女)を意味するという話を前にしたが(2006/2/13),あれは実はかしましOPを見た感想である.そこで三人は手を繋がない.はずむ,やす菜,とまりの場合,手を繋いだらもう語るべき困難はなく,あとはそのまま三人で寄り添っていればいい.

今回,他の人の感想を斜め読みして回った後で読み始めたら,やす菜ととまりの名前と容姿の対応が,僕が表紙など見て想像していたのと逆だった.こっちがやす菜か! ていうか想像していたのと全然違う人たちだった.たとえば,やす菜って女の子が好きな女の子なのだと思っていたけど,1巻の告白シーンの時点で既にそうとは読めない.告白されて断った側が泣いてる(1巻p.19)って,よほど好きだったのだねぇ.あと「顔のない月」の時には思わなかったが,よく考えてみると,あなただけ見える,あなたしか見えない,ってそれただの初恋じゃないのか,とか.

疏水太郎

D.C.S.S. #19-#26

魔女っ子のホームステイ,であったのだなぁ.アイシアは朝倉さん家の子どもになっちゃえば良かったのにね.

二年前の当事者なのでやりにくいだろう事情はあれ,さくらが随分と間違える.さくらは魔法が危険であることを説明するにあたって,二年前の事件においてどういう気持ちの流れに沿って何が起こっていたかを話さなくて,魔法の力に頼りすぎると全てが魔法のおかげだと錯覚をおこす,人々は努力することを忘れ……(#21)とか喋り出すのだけどそれどう聞いても二年前の事件と関係なくて,うわべで考えたことだから真に迫ってこない.一方,白河ことりは二年前の心境を具体的に語ってくれる(#20).そして,本当を語らない人の言葉は信ずるに値しないのである.アイシアのホームステイではじめに出会ったお姉さんがことりで良かったと思える.あと,さくらさんはあいかわらず口下手であった.

芳乃さくらが自分の言語を内面として見せるのに白河ことり程には達者でなかったので,彼女の恋のおはなしはアイシアにはうまく伝わらなかった,としておきたい.当時のことは誰にも話すつもりはない,なんて考えてしまっているさくらさんは想定したくない.というのは,魔法の話が辿りつく場所への期待に対する結果の1つであるかなぁ.

初音島の桜の魔法というのはおよそ事後的な説明原理であって,人が自ら実施するものではなかったのだけど,そこのところへ魔法を自分で操ることのできる魔女っ子がやってきたものだから,魔法とは何であるのかが一旦わやくちゃになってしまう.アイシアにとってはお婆ちゃんが道具的に用いていた人を幸せにする魔法こそが魔法であって,それはそう定義されるものであるがために初音島の魔法とは根元が異なる.もしもアイシアのホームステイという気持ちで読むならば,初音島の魔法は人を幸せにする魔法ではなく,そういう種類の魔法も世の中には存在しているということを,アイシアは覚えて帰っただろう.シリーズを通した感想として,二年前の事件のため重苦しく感じられた初音島の魔法とは対照的なアイシア小魔法の数々を見ることができたのは素朴に楽しかった.

疏水太郎