桂遊生丸「AIR」

なにはともあれ「あほちん」です.彼女に自らそう名付けさせるあたり愛が足りています.その人間くさい自覚について描くことを愛と呼んでよいならば,ですが.そして神尾観鈴さんはこんなにいろんな表情をする娘さんなのだなぁ,と気付かされるのも合わせてね.

あと,遠野さんがびっくりするくらい美人さんであることも僕はようやく気が付きました.遅い?

往人の観鈴に対する興味のあり方は,観鈴がいつも突然側に立っているように記述されることで,観鈴は往人のことを見るのだけど往人は観鈴のことを見ていないという様子として感じられるのでした.それは後々,堤防に吹く強い風のせいだと想像できるようになるにしても,彼らの事情はさておきこちらとしては語られた順序のままに印象が残されるものでして.

そうした往人のあり方がはっきりと変わったように思われるのは観鈴が泣き出した後のことである
http://storybook.jp/rst/narrativelog2.html#14
という変化について,忠実な漫画でした.やっぱり観鈴は突然側に立っているし,それどころか泣き出した後には往人さんのほうから観鈴を探しにくるのでした.やさしい.この忠実さが僕にとってわざわざ意識されるのは,TV版の第一話では冒頭で観鈴が往人の方へすりすり近寄ってくるからびっくりしたためでね.往人から見て観鈴はすぐ隣には立たなくて,数歩近寄れるだけの距離があけられている.原作ゲームの文章を素朴に読むと「すぐ」隣に立つ観鈴の絵というのは桂遊生丸の構図(p.6)になるわけです.もちろん,広い堤防で知らない人がすぐ側に立ってるほうが不自然な距離の取り方で,TV版のほうが普通の出会いになってます.すぐ側に立つ観鈴も変ですが,「話しかけられているようだ」だなんて,その観鈴との距離を無視してしらばっくれる往人も変でね.原作での往人のそうした内心はTV版では観鈴の行動と対応したものに置き換えられています(「なんだこいつ」「なんだ,なにが目的だ.金か,金ならないぞ」).距離の破壊は麻枝くささの一面だと思われますが(末永が言ってたのとか今木さんとか),TV版のほうでは二人の関係を距離の測られた穏やかなものとして描こうとしているのかもしれません.あいにくあまりにびっくりしたのでまだそこから先を見ることが出来てないのですが.

それはそうとカバー下.僕は観鈴とかのりんと遠野さんの会話って想像できなかったのだけど,これだ.

疏水太郎