月ノ光太陽ノ影

3年前の自分に見せてやりたい年上の男満載ノベルゲーム.テキストも絵も上質のエロスでこういうのをずっと待ち望んでいたのだが,いかんせん僕に届くのが遅すぎた.唯一,周藤先生が僕より1つ年上なので有り難かったけど,他はちょっと距離を感じてしまった.

選択肢に「すがりつく」なんて自然に交じってるところが嬉しい.主体が女の子であるかそれとも都築真紀の男の子でもなきゃこういう言葉は出てきそうもなくって.

このごろは戦前の女性との逢瀬が好きすぎるので,昔の僕に対して申し訳ない気がする.

疏水太郎

ライトノベル20題

ライトノベル読み同士で馴れ合うための20の質問

ときどきこうして自分の「好き」を考えなくちゃ判らない.

1.ライトノベルを読みはじめたきっかけは?(最初に買ったライトノベルも併せて)
 姉のものは僕のもの,僕のものは姉のものという時分に,姉の本を読んでた.「ざ・ちぇんじ!」だったのではなかったか.姉と共同購入でなく自分だけで買ったのは「ロードス島戦記」.そういえば二巻が出た頃のことだったろうか,京都はジュンク堂で水野良先生のサイン会があって,四条通りを挟んで向こう側にまであった列の中に僕もいた.小説というよりはRPGの憧れの人に会えるという印象のほうが強かった.

2.「ライトノベル」という呼称は好き?(嫌いなら好きな呼称を挙げてください)
 意味をひとつに取らせないところは絶妙かと思う.

3.誰かに薦めるならこれ、というライトノベルを一冊
 高楼方子「時計坂の家」

4.いちばん好きなライトノベルを一冊
 清水マリコ「侵略する少女と嘘の庭」

5.いちばん好きなライトノベル作家を一人
 困ったのでツンデレのことを語る.僕について曰く,会ってしばらくは研究会などで質問する様がきついので怖い人だと思ってたけど,話し掛けてみたら柔らかかった,なんてことを頻繁に言われるが,慣れてきた相手にはまた辛くあたり始めてしまう.改めたいのだが.

6.あなたの好きなイラストレーターを一人
 くさなぎこよりさん.先日,ボールマウス+Windowsの「ペイント」で描いておられると知って,僕もその境地を目指したいと思った.

7.あなたの好きな漫画をひとつ
 玄鉄絢「少女セクト」(社会人編)
  ずっと続いてゆくのが良い.とても良い.

8.あなたの好きなアニメをひとつ
 「うた∽かた」

9.あなたの好きなゲームをひとつ(エロゲは除外)
 「東方妖々夢 ? Perfect Cherry Blossom.」
  実は魔理沙ファン.
  こちらの同人誌のレイマリが素敵.
  そんなんで泣くなよ!
  なんだか男の子みたいな泣き方するのが印象深い.

10.あなたの好きなエロゲをひとつ(全年齢対象のギャルゲも含む)
 「かえで通り」
  女の子たちの科白回しの好みで言えば.

11.あなたの好きな小説をひとつ(ライトノベルは除外)
 宇野浩二「思い川(あるいは 夢みるような恋)」
  僕の中の男の子が待ち続けている形がここにあると思えたので,
  読みかけだけどあえて.
  しかし今どき芸者さんというのは.
  京都だしなせばなるだろうか.

12.あなたの好きな映画をひとつ
 石井聰亙「水の中の八月」

13.あなたの好きな楽曲をひとつ(クラシック音楽は除外)
 Chappie「Welcoming Morning」

14.あなたの好きなクラシック音楽をひとつ
 滝廉太郎「花」
  ごめん,クラシック違う.好きなのでどこかで書きたかった.

15.あなたの好きなブログをひとつ
 昔みたいにストレートに告白できなくなってしまった.
 僕にツンツンされてる人はたぶん好かれています.最悪だ.

16.もっとメジャーになってほしいと思うライトノベルレーベルは?
 ファミ通文庫(学校の階段)

17.ライトノベルを食べ物にたとえると何だと思いますか?
 附子.甘いという人もいるが,年寄りには毒.特に「涼宮ハルヒの憂鬱」は心臓が痙った.

18.あなたがそうだと思うライトノベルの定義を5文字以内で答えてください
 ライトノベル.
 ごめん6文字になった.定義(5字)のほうが見出し語(6字)より短いっていうのはどうだろう.それはふつう換言と呼ばれるが,そんな風にしてまでいろいろこね回したくなるほどに水分の多い言葉であることは判る.

19.こんな質問は「バカらしい」と実は思っている?
 むしろ有り難いと思う.

20.あなたがライトノベルから卒業するとしたらどんなとき?
 質問7への答えに同じ.

疏水太郎

雲のむこう、約束の場所

魔法というのは大変ローカルに作用するものなので,沢渡佐由理の夢や未来視は青森からの眺望を越えないし,塔は彼女の血筋に繋がるし,世代は飛行機の思い出で重なりあうのです.浩紀と佐由理の存在も空間を越えて伝播あるいは電波した先に病院の一室で出会います.塔は開戦のきっかけとならず,そのお話が分断された家族たち男の子女の子たちの個人的な事情や僕らの胸を打つ異世界的な光を帯びた地方の風景を背負っていればこそ,眠り姫が目覚めるっていう魔法は顕現する,というのは美しい図面です.佐由理がお話好きな人であることからその手紙や独白や夢見の世界に詩的なものが交ざってしまうのもこの魔法を支えていました.

魔法の強度は事情がローカルであるほどに高まるものだと思います.雲のむこう,におけるそれを数値化したい場合は,平行世界が存在するということ,またその浸食をひとりの普通の女の子が食い止めているということを信じる人間がこの話のなかで何人いたかを想像して,その逆数をとってください.僕が数えるとあまりいません.

1998年の3月に水姫たちと青森へ行ったときのことが思い出されます.夕暮れ,青森港の防波堤の突端に立って見た海のむこうは,関西から飛行機で行ったことがあるはずのその場所とは同じに思えなくて.南に妙子を,北にほのかを望むその場所は,日が落ちて,いま来た道は真っ暗に,海の色と区別がつかなくなっていって,取り残されそうなその場所で,水姫は北の彼女の名を呼び,僕は南の彼女の名を呼んだのでした.つまり,沢渡さんを北海道へ連れてゆく話というのはそんな風に真に迫ってくるもので,あと,佐祐理さんを彼女独りの世界から救い出すというのも同じで.判ってやってないですか,これ.

DVDはずっと前に水姫から借りてた.とても素敵だったわ.有り難う.

疏水太郎

D.C.S.S. #2

#19がないのでふりだしへ戻る.

#2 アイシアさんがまるで借りてきた猫のようでした.つまり,見知らぬ家へやってきた子供そのものの振る舞いで.そして,白河ことりは旦那さん(純一)と不倫中の若くて綺麗で優しいお姉さんのようでした.旦那さんの子供にも優しくて,一緒にお風呂入ったりする.この湯船での二人の体格差が凄くない? お母さんと子供みたい.本シリーズについて,アイシアの子供っぽい生態が精密であるほどに他の大きな人たち同士のやりとりはねばっこいしがらみのあるものとして見えるのですが,たとえば全然ちがう子供と大人というものが一緒に暮らしていたっていいように(それって当たり前だと思う?),アイシアとそういう大きな人たちが一緒に暮らしていることが当たり前として描かれるところが僕のお気に入りなのだと思います.#18でアイシアと純一が二人歯を磨いてるのが好き.大きい人たちの会話についてゆけなくなって,アイシアが途中で家に帰っちゃうのも好き.ここで家というのは純一と音夢の家ですが,ああいうとき子供が帰りたくなるのは自分のおうちであって,アイシアにとってそこは自然に自分ちだったのだなぁ.

もう半年前になるのか.序盤についてはD.C.唯一の子供のこととか,魔法のしっぽの話とか.

疏水太郎

D.C.S.S. #17, 18

面白いです.とりあえずアイシアのいい表情満載の二話でした.

#17 朝倉家のみなさま(音夢ママ,純パパ,アイシアちゃん)の若夫婦一家っぷりについてはさんざ言ってきた僕ですが,その僕でさえやりすぎだろうと思ったお話で,楽しくって笑い続けでした.音夢がおばさん臭すぎるのではとも思うけど,ある典型的な夫婦の元にアイシアを置いてやりたいという僕の欲望が見事に叶えられたのでした.おばあちゃん子なので父母の居る家というのをあまり知らなさそうでね.#18では当たり前のようにさくらが家に泊まってゆくものだと思っているアイシアの家族づいた様子も嬉しい.

さておき,子供の僕としましてはやはり父よりも母と居る時間のほうが長かったので,その母の甲斐甲斐しくも忙しい毎日を見てたら父のことは腹が立ったものです.アイシアさんは全く正しいなぁ.

#18 音夢がさくらを抱擁するというのは前シリーズからの継続が感じられる部分です.D.C.第25話でこの二人が抱きあったことについてはずっと気にしてきたもので,
http://storybook.jp/note/?d=2006-03&m=month#/note/note060305.htm
うまく言葉にできないのですが,愛情とか内面について考えることをさしおいて,それはまず女性らしい縁に突き動かされるあり方なのではないかと,ひとまず僕はラベルをつけつつ理解しようとしているのです.

#19を録画失敗していたことに気付いてたいへんがっかり.

疏水太郎

まじぽか #2

この娘さんどもめ.部屋が片付かんから変なもの買うんじゃなーい.

女どもめ,と言いたいところを控えめに言ってみました.まぁ,あの聡明なる我が母をもってしても惑わされる通販の魔力ではあります.

あと,鉄子の作るご飯が下宿生男子のよくやるような一品大量生産で,まわりの娘さんたちもそれになんら違和を感じていないところが可笑しいです.掃除の件にしても異性との出会いにしても,あれだ,魔界とか人間界とかいうよりもふつうに親元を離れ東京星で共同生活を始めてみた娘さんたちのようなとぼけっぷりだわ.桐嶋たけるの「でもホントはカバが好き」とか.

完全版,っていつそんなものが!

りる版のED.キャラクターの立体はその表示面の立体に従う,という彼女のありのままの成り立ちを見る点において愛情を感じます.子供がおもちゃを愛撫するときの素朴な手触りであるところのそれ.

疏水太郎

泉鏡花「沼夫人」

去年の十二月のこと,目が覚めて部屋に立ったらふと足元が生温い,一面,びちゃびちゃとするのは何事かすぐには理解できなかったのです.台所付近の天井から滝のように水が流れ落ちるのを見てもまだ判然とせず,悪い夢かとも思いましたが,思い当たって大家さんを呼んだのはつまり,上に住んでる大学生の男の子が部屋をプールにしたということで,蛇口を捻ったのに水は出なくてうっかりそのまま外出し,日が昇るにつれ凍った水道が解けて仮初めの春に大水が出た,ざあざあと天井から水が出てくる様はまさしく鏡花のやりそうなことで.

ともあれ,美しいお姉さんの手を引いたり引かれたりしながら,闇に閉ざされた水びたしの世界を渡ってゆくおはなしでした.この水びたしというのは辺り一面の田んぼが大水のため半ば沈んでしまったものでね,水を被ったあぜ道の,月はなく,行く手足元のあるかないかをふたり裸足で彷徨うのでした.その様子は ICO in Waterland とも思われます.

幻想文学第33号(特集:日本幻想文学必携)によると天沢退二郎のオールタイムベストテンの1つに数え挙げられているがため読んだものでした.曰く「鏡花からはこれ。偏愛の一篇。水の出方がいちばんすごい。」すごいと聞いて「夜叉ヶ池」の洪水のそれを想像していたのですが,ここではむしろ這い寄るようなそれでありました.あぜ道が織りなす迷路については「光車よ、まわれ!」の”ルミの冒険(二)”に出てくるコンクリートのあぜみちと水の迷路が思い出されるところでもあります.

美しいひとと水の世界に出会う夢は,うつつのお姉さんを湯上がりのまま水びたしの田んぼへ連れ出す倒錯と交じり合って,鏡花先生の変態ここに極まれりです(いや,いつも極まってますが.)いまだ水たまりがあればじゃぶじゃぶと入っていってしまう僕の幼いあんよたちは,僕の部屋が水に浸かった時でさえやはりその足触りを喜んでいて,大家さんに文句をたれる僕の口との分裂がいつか先生のような子供じみた恋の一夜を呼び込んでくれないかしらと思うです.

疏水太郎

宇宙のステルヴィア #1

新入生として迎えられる時のあの,自分よりもずっと先をゆく人たちを目の当たりにする驚きと喜びとを久々に感じたのでした.これまで新しい場所へ参入するときに幾度か自分が感じてきたそれを忘れていたなぁ.新しい人たちには僕らがこういうのを見せてやらなきゃいかんのです.

とある大学からわざわざ見学に来てくれた学生さんがいまして,ちょうど研究会をやってたのでせっかくだから参加してもらいました.Webや論文でしか見られなかった研究の発表とディスカッションとを生で見れたことに大変喜んでくれまして,そうすると僕としてもやりがいのあるような誇らしいような気持ちになるのでした.彼の研究科とうちの研究科の風土はおそらく相当違っていて,胸躍るようなことというのはそういうところからもくるのでしょう.自分の研究科で行われていることというのはやはり研究室に配属されずとも空気として馴染んでいるもので,うちの学生さんを感動させようと思ったら彼らの百歩先くらいを行かなきゃならないのだと思います.というような気概が沸いてくるお話でした.

疏水太郎

まじぽか #1

鉄子が洗い物や掃除をしてるんですが,クモの巣はそのまま残されているところが魔界流で可笑しいです.そこでは一体ほうき掃きは何を意味しているのか.なんか無意味っぽい時間の過ごし方で良いですねぇ.

疏水太郎

ママレード・ボーイ

テレビを点けたらやってたので初めて見ましたが,OPを食い入るようにこう.みんな日曜の朝からこんな動悸の激しくなるアニメ見てたのか.好き好きなちゅーで始まるその日曜は一体どんな一日であったのだろうか.

疏水太郎

錬金3級まじかる?ぽか?ん #1

我が心のオアシスとしてリピート放映中.後になって意味がないと判ったり明日になったらもう忘れてそうなことこそ熱中されるもので.郵便受けを作る様子が楽しげで良かったですよ.

エンディング映像における車内の絵は車の立体に対してありえないのだけど,彼女が二次元の身体をもつことのいじらしさ,に対する愛が伝わってくるよね.井出安軌といえばD4プリンセスのエンディングにも同様の愛が感じられました.

むかし僕が言ってた視野角180度の世界というのはこういうことだったのだなぁ.視野角180度のテレビが仮定されるとき,僕がテレビの真側面に立ったとすればそこにどんな映像が見え得るのか.素朴な答えとしては真側面からテレビ画面を見ることはできないわけですが,視野角の180度への接近がテレビの性能として謳われるとき,見え得ることの境界が気味悪く浮かびあがってね,表示面が見えるかどうかという話と表示される内容が見えるかどうかという話の混同が起こります.

視野角176度を謳う液晶テレビがあるのですが,平面型テレビの視野角を広げるというのは表示デバイスの平面性に対して表示される内容も忠実であらんということでして,たとえばハガキをいろんな方向から眺めるといろんな四辺形として見えるわけで(所謂アフィン変換というやつ),その平面の歪みに平面上の映像の歪みも忠実に従わんとすることです.そこで視野角180度というのは平面上の映像と平面との完全なる同一を意味するのですが,それは180度の視野,つまり全て見えることについて語っているはずが,全く見えない180度(真側面)に立つ事態が連想される,という境界的な有り様となります.

キャラクターが二次元として意識されるとき,厚みのない平面であるところの彼ら彼女らを正面でなく真横から見たとすれば,なんて僕はその見え得ることの境界におびえていたのですが,これはまじぽかエンディングにおける井出安軌による説明が全く正しくて,僕が平面の彼女を側面から見たとすればもちろんそこには彼女の横顔の描かれた平面がまた配置されているのです.どうしてこんな当たり前のことに気が付かなかったのでしょう.

薫さんの井出安軌話に対応した話も必要だと思うけど,とりあえず明日以降ってことで.
http://d.hatena.ne.jp/kaolu4s/20030917#p2
http://d.hatena.ne.jp/kaolu4s/20030910#p3
(他にもあったら教えてダーリン.)

どうもありがとうございます.参考にいろいろ見ておきます.

疏水太郎

「最近読んだおはなし」より

宇野浩二「蔵の中」 たいへん和みます.そのままコピーしてしまいたい語り口,と暮らしぶり.

泉鏡花「星あかり」 眠れない夜のおはなし.こんな夜があったよねぇ.僕が描くよりも何十倍もその通りです.

川端康成「古都」 虹の立つふもとの世界のおはなし.京都に異界数あれど,まだ間近にこんな場所が残されていたのだなと驚かされます.あの山の向こう,虹の立つふもとにある世界,つまりその空想の北山杉の村には,わたしとうり二つの女の子が住んでいるのでした,ってそれはどれほど可憐な夢見でしょうか.映像化作品ぜんぶ見た後で書くつもりでしたが人に薦めた手前,まずは一言だけ.

なお,北山杉の村を想ったり村へ向かうときに虹は伴われます.
「北山に多い虹のなかを通して,その音楽,歌声を聞いているような…….」(祇園祭)
「北山の方角に,虹がいくどか立った,午後であった.」(松のみどり)から始まる一節.「虹はふといけれども,色が淡く,上までの弓形は,描いていなかった.」北山杉を連想させる垂直の虹で.

もちろん北山杉の村というのは京都に実在するわけですが,作中では京の町家のお嬢さんが夢見るところのそれであってね.

石川淳「小林如泥」(諸国畸人伝より) 松江なので.あと気にいった一節があるので.「しかし,如泥はたった一つ,おのれの住む町のために,町のひとびとのために,記念すべき贈物をしている.今日なお灘町に存するところのトンド宮(歳徳宮)がそれである.もっとも,文献を欠くために,これは如泥作に擬せられてはいるが,灘町のひとは擬すどころか,宮の全体がそっくり如泥ひとりの手に成ったと信じているようである.よろしいかな.ここは考えるなんぞというバカなまねをするよりも,町のひとの信ずるところをただちに信じておいたほうがよい.こういうものを絶対の真作という.ジョテイさんのつくったトンド宮である.」言い伝えを列挙する果てにこれであります.伝説とは奇異にまで高めてこそ信心されるのね.

石川淳「安吾のいる風景」 夢二の女の目と安吾の目が似ている!とかそういう話.ラヴい.

あまり工夫なくmixiに書きっ放しだったのだけど,貯まってきたので載せときます.

疏水太郎

石川淳「佳人」

物語,とか口走ってしまうことに対する難儀さ.唯一表題だけが物語くさいものとしてほっぽり出されて,佳人だぁ? 確かにこのくさい表題からはどんな物語でも始められそうであって,それがまた「わたし」を憂鬱にさせているのに違いないのでした.

石川淳読んでるととある人のことが思い出されてならないのですが,僕がその名を出すのは畏れおおいのでまぁ,うじゃうじゃ.

疏水太郎

桂遊生丸「AIR」

なにはともあれ「あほちん」です.彼女に自らそう名付けさせるあたり愛が足りています.その人間くさい自覚について描くことを愛と呼んでよいならば,ですが.そして神尾観鈴さんはこんなにいろんな表情をする娘さんなのだなぁ,と気付かされるのも合わせてね.

あと,遠野さんがびっくりするくらい美人さんであることも僕はようやく気が付きました.遅い?

往人の観鈴に対する興味のあり方は,観鈴がいつも突然側に立っているように記述されることで,観鈴は往人のことを見るのだけど往人は観鈴のことを見ていないという様子として感じられるのでした.それは後々,堤防に吹く強い風のせいだと想像できるようになるにしても,彼らの事情はさておきこちらとしては語られた順序のままに印象が残されるものでして.

そうした往人のあり方がはっきりと変わったように思われるのは観鈴が泣き出した後のことである
http://storybook.jp/rst/narrativelog2.html#14
という変化について,忠実な漫画でした.やっぱり観鈴は突然側に立っているし,それどころか泣き出した後には往人さんのほうから観鈴を探しにくるのでした.やさしい.この忠実さが僕にとってわざわざ意識されるのは,TV版の第一話では冒頭で観鈴が往人の方へすりすり近寄ってくるからびっくりしたためでね.往人から見て観鈴はすぐ隣には立たなくて,数歩近寄れるだけの距離があけられている.原作ゲームの文章を素朴に読むと「すぐ」隣に立つ観鈴の絵というのは桂遊生丸の構図(p.6)になるわけです.もちろん,広い堤防で知らない人がすぐ側に立ってるほうが不自然な距離の取り方で,TV版のほうが普通の出会いになってます.すぐ側に立つ観鈴も変ですが,「話しかけられているようだ」だなんて,その観鈴との距離を無視してしらばっくれる往人も変でね.原作での往人のそうした内心はTV版では観鈴の行動と対応したものに置き換えられています(「なんだこいつ」「なんだ,なにが目的だ.金か,金ならないぞ」).距離の破壊は麻枝くささの一面だと思われますが(末永が言ってたのとか今木さんとか),TV版のほうでは二人の関係を距離の測られた穏やかなものとして描こうとしているのかもしれません.あいにくあまりにびっくりしたのでまだそこから先を見ることが出来てないのですが.

それはそうとカバー下.僕は観鈴とかのりんと遠野さんの会話って想像できなかったのだけど,これだ.

疏水太郎

公野櫻子/たくみなむち「ストロベリー・パニック!」1巻

漫画のほう.え,こんなにえっちな話なの? 漫画はとても良かったけどまずは驚いたのでした.

静馬がアニメとは同じように見えて違うよね.フルバで例えるなら学園時代のあーやと独立してからのあーやは同じように見えて違うというやつ.漫画の静馬と言う人は頼りになる振る舞いをしつつもついおかしなケレンが出てしまう人ですが,アニメのほうはケレンを備えてるけど頼りになるかっていうとちょっと届かない子供さんで,これは六条深雪による静馬の扱いに漫画とアニメとで大きな差があることから,わざとそう書き分けてるのでしょう.あと,内面(事情)が省略されると行動は唐突で子供っぽく見えるのです.漫画の静馬は饒舌.

僕は子供っぽいほうのこの人を結構気に入ってるのだ.扱いにくさとか.

昨日のアニメ版の話はたぶん補足が必要.昨日,シスター浜坂になって門限を越えた生徒さんたちを指導する様子をいろいろ想像したのです.渚砂は見たまんまの子供さんなので,寮則をなんども復唱させるとかいう子供向けの罰になります.六条深雪は仕方なかった事情を正しく説明できるだろうから,お話をするだけで終わることができます.花園静馬に対するのは難しくて,学園において名実ともに立場ある人なので子供向けの罰を与えるわけにはいかなくて,さりとて子供なので六条深雪のようにお話だけでは収まらなくて,たとえば落とし所として御聖堂の清掃をさせるかなぁ,なんて.

シスター浜坂が贔屓や嫌みを臭わせずに,相手によって(渚砂あるいは六条深雪)振る舞いを選ぶ様子は,彼女らのこと一人一人別のものとして見てあげているように思えてね.それでこのシスターは静馬に対してどう振る舞うだろうと想像したときに,それは優しかったのだ.

シスターは声が良かったんじゃないかな.怒気をはらまない厳しさがあって.

疏水太郎

Strawberry Panic #1

絵がとても可愛いです.

冒頭がそうであるので静馬さんという人のお話であるっぽい.そして子供たちがなんか抱えてたり混乱したり浮き足立ってる中でシスター.いやな人ではない,というのがとても大切.この人がいてくれるおかげで学園を俯瞰できる第一話でした.安定感というか,シスター浜坂と六条深雪の会話によってこの学園の平和が支えられているような錯覚すらもよおされます.しびれる.

シスターの部屋にお手伝いと称して入り浸る女生徒がいてもおかしくない強さを感じましたが,それは静馬さんという人をうまく語ろうとするときには語られない部分になっちゃうかな.階層が違うというか.

あと,渚砂がベッドの上で立ちあがるのが面白いです.この学園の他の子たちはやりそうにないじゃない.少なくともお上品そうなこの学園らしい振る舞いではなくってね.

疏水太郎

七夕の夜,長生殿にて

僕の革靴は長く履いていたせいか雨の日に踵がきゅうきゅう鳴くようになりました.子供靴のようで恥ずかしいから雨の日は大学の廊下をつま先立ちで歩いて,だけど機嫌のいいときにはやっぱりきゅうきゅう鳴らして歩いていたのですが,三十越えた男がそれはどうかと思い直してこのほど革靴を新しくしました.これで音は鳴るまい僕も大人の仲間入りと思ってたら,この頃の雨降りで靴底全体がきゅるきゅる変な音を出す靴だと判って,長靴みたいでよけいに恥ずかしくてそろりそろりと歩いています.相当ビビッドな音で,例えるならことみのヴァイオリンのような感じ.

そういうこともあって先日のお花見では水姫に靴の素材のことを尋ねたのでした.これほど科学が発達してなぜいまだに革靴なのでしょうか.水には弱いし傷がつくし変な音はするしで,全てにおいて革靴を上回る超素材や超構造がありそうなものです.あとお花見ではやたら靴ひもが解けて二人に待ってもらったのですが,僕はちょうちょ結びできないということが最近判明しつつあったのでした.雑誌とか束にするとき,解けまくりでショックでした.形はちょうちょっぽいのでたて結びという奴.さっきまで練習して,たぶん,うまく結べるようになった.じゃあ,次は正しいスキップの仕方を勉強しようか.教えてくれる人のあまりない当たり前のことが世の中たくさんで.

学べばいい,手をかければいいというのは正論ですが,形状記憶ワイシャツというのはやはり大発明だった思うので,その調子で形状記憶靴ひもを夢見たりします.あとどうして靴下は片足しか出てこないのでしょう.片足だけの寂しい靴下が十足ほど出てきてため息をついたことがあります.三足千円で買ったわけでもないのに小人さんの仕業でしょうか.必ず二足で一緒にいるような関係記憶靴下を発明した人には個人的に発明大賞を差し上げたいです.あるいは,靴下を揃えてくれるお手伝いさんがいるようなお家へお嫁に行きたい.

きゅうきゅう鳴らないスーパーシューズに誰でも結べる超ストリングス,ことみが見上げる管弦楽隊,ウェディング.比翼連理の靴下で白馬に乗った玄宗皇帝,僕は蓬莱の玉の輿に乗って,これがほんとの超ヒモ理論であるとかないとか.

疏水太郎

学園稲生物怪録

眼鏡友の会の人のSilver Moonを思い出すにつけ,ONE?輝く季節へ?には異能者が出てこないというごく当たり前のことが,当たり前ではなかったような感興がもよおされます.(もちろんToHeartには出てくる.)

とかいいつつも氷上シュンってどうなのかは知らない.多分そういう人じゃないと思うのだけど,いいかげん一度会って話をしなくちゃね.

シルムンの感想を検索してみたらまだ2005年になっても新たにプレイしてる人がいて嬉しかったり.

疏水太郎

男の子へ視線が向けられるなか,女の子を脇見するとき

このへんの話の続き,あるいは近頃創作された記憶として.

男女問わず普通の読み方をしていれば,アーシアンならばちはやと影艶の関係を,東京BABYLONならば昂流と星史郎さんの関係を気に掛けるものだと思われます.ちはやと影艶が結ばれた夜には喝采をあげたものでね.ただそれは女の子の特権に足を踏み入れているような気もしてしまって,だからそのくせ僕がときどき武者小路美幸やら皇北都(僕にとって伊藤美紀は北都の声として認識される)のような女の子のことを憧れるような目で見てしまうのは背信行為をしているようで,誰に? 姉に? あるいは姉の向こう側に広がっているに違いない何か僕では理解しきれない本当の世界に対して後ろめたかったのでした.長野まゆみでいえば,「夏期休暇」(関係ないと思うけど千波矢という名の少年が出てくる)では桂ねえさんのことも気になってしまったり,「八月六日上々天氣」の珠紀さんはとてもうつくしい人であると思えたりするのが裏切りでね.大学生になってからようやくそこんところ開き直ることが出来るようになったのでした.

余談ですが,ある日,爆弾が落ちてきたときの奇抜という言い方は,「八月六日上々天氣」のために発見されたものです.この場合,奇抜だけど同じ強度を持った消滅は他にないと思うのです.

疏水太郎