たとえば First Person Shooting (FPS) を一人称たらしめてるのは,いまのところ小説が僕や私といった一人称表現を用いるのに似た,一人称的な視野の絵が表示されているという観念的な理由であると思われます.素朴にFPSっていう言葉を聞くと,プレイヤーは半透過型HMDをつけることにして,実世界に敵のCGを重ね合わせて,僕ら走り回りながら撃ち倒してゆく図を想像するのだけど,どうでしょう.ジリオン銃でももちろんいいよ.今のFPSにおける一人称っていうのは絵によって強化された一人称小説くらいの意味しか持たないです.それでようやく初めの話に戻りたいのですが,僕らの身体運動からは日常的な意味合いでは切り離されてると言える,いわば観念的な平面の芸術について,僕らはいつまで付き合うことになるのか,あるいは付き合うことができるのか.ここはうまく根拠を示すことができないのですが,アーケードゲームにおいても学術的にはヒューマン・コンピューター・インタラクション(HCI)分野で発表されてきたような考え方が数歩遅れで導入されて,ガンシューティングにおける身体のセンシングや,カードやタッチパネルを用いたゲームの操作法などが,研究云々を引き合いに出すのがあほらしいほど当たり前になってきて,そうするとHCI研究者がこぞってバーチャルを捨てて実世界とヴァーチャルの境界面へ駆け出してる(ように僕には見える)昨今,これからはゲームにも相当,センシングとアクチュエーターに代表される実世界的インタラクションの要素が入ってゆくのではないかなぁ,と思いました.EyeToyであるとか剣神ドラゴンクエストだなんて,コンシューマー向けでもここまで出来るのかって,僕はあごが落ちました.ファミリートレーナーや家庭用DDRマットからは一世代違うセンスです.いやセンシングか.
宇宙人,未来人,超能力者や世界の改変,あるいは思惟生命でもいいんですが,そういう超常的な要素を抜きにしてどうやっておはなしを納得してゆくことができるのか,というのが sense off 以来の僕の楽しみとなっています.例えば宇宙人だということもある人の魅力のひとつなんでしょうけれど,そういうぎらぎらしたところの探求はハルヒのような若い人に任せて,だけど,じつは宇宙人でないと考えたとき,宇宙人を信じてない人として見たときにも,その普通の中学生や高校生としての活動を,自分自身のそれから時を経て歳が離れてから見るときにようやく愛しさを感じるものとして,興味深く掘り起こしてゆくことが出来るものと思われるのです.