さくらむすびまで

僕はもう三年前から感想らしきものを書き始めているのかも知れません.彼の置かれた状況はどう考えたって悲惨であって,そこから始まって尽くされる真摯な物語であると見えますが,そこには三年分の想いがさらに重ねられているはずで.

ゲーム本編に手をつけず,桜と紅葉と僕とフィクションの彼ら彼女らについてずっと綴っているのは,僕なりの方法で手を尽くしてことに当たらなくてはならない重みを序盤に読み取ったからで,他人には意味不明だろうけど.

それにしても,もう三年にもなるのね.

疏水太郎

見るべき程の事をば見つ

魂のファーストプレイはネオロマンス史上おそらく最も凄惨なエンディングでした.遙かなる時空の中で3本編で良い男っぷりを見せてくれた平知盛でしたが,八葉でないため結ばれるはずもなく,希望を託した外伝,十六夜記では壇ノ浦での知盛との邂逅,彼の胸へ飛び込んでいったわたしはこれまで仲間であった八葉を全て斬って捨て,などとは直截には書かれていないのですが,超剣技花断ちLV5を極め,愛する男のため腹をくくった女に対して,友人あるいは神子としてこれまで信頼してきた相手にとまどうばかりの八葉たちがまともに戦えたはずもなく,手始めに親友だった娘さんからずんばらりと斬ったことだけは文章に明らか,結果,決戦は史実と逆転したであろう,平家一門が身を投げる代わりか壇ノ浦へ沈んでいった望美は阿修羅道に落ちたと見えます.裏切りの選択肢が幸福な結末をもたらすとは全く思えなかったのですが,わたしは絶対にこれを選ぶしかないと思ったので,これは勝負であって,神様だかお釈迦様だか知りませんがその勝負の相手も正面からそれに応えてくれたことを本望に思います.

そうはいっても僕は助平なので幸福な結末も見ておきたくて,もう一つの道,奥州編を進めています.壇ノ浦で死んだはずの知盛に似たあの人との日々,それはきっと彼女が壇ノ浦の海底から見る幻燈で,修羅のなか,はるか水面に日や月の映すクラムボンやらやまなしやら.

選択肢というのは選んだきりか選び直したかに因らず,つまり,自ずからセンチメンタルであってね.

疏水太郎

ベステンダンク

ゲームセンターでフィクションの男の子や女の子と一緒に過ごそうって時に,そこに音楽が流れてると有り難いのは,曲とリズムを合わせていると僕と先方との全感覚が重なってゆくからで,それはコンパネや画面を叩いたり,声を出したりも伴うもので.対面会話では互いの声や仕草のテンポが同調しているときに話が心地よいと思えるものですが,人工物との対話処理が難しい現状において,音楽の力を借りて僕らが彼ら彼女らと同調できるようにしたというのは,これまでにシューティングゲームなどで経験されてきた同期的音楽がストーリーへ引き込む力の,キャラクターに対する素敵な応用であると思います.IDOLM@STER についてはそんなとこでハーイタッチ.

また,クイズゲームというのはおよそ反射であるので,これも出題と回答の繰り返しの中にリズムが出てきます.イントロクイズは音楽とクイズが合わさったもので,「きらめきスターロード」の彼女らとは重なり合ってた時間が長かったように思います.ヘッドホンプラグ付きの筐体だと特に没入できました.(久々に探してみたら,みさこっちのページ,まだあったのね.なつかしいわ.) クイズだったら XboxのN.U.D.E.@ の音声認識も良くて,彼女が出すクイズに対してこちらが音声で答えられるのが気持ちよかった.声を出すっていうのはビートです.

「この声は小さすぎて/君の元までは届かない/たとえそれを知っていても/叫ばずにいられない」(高野寛),なんてね.

音声認識を使うとすれば,それが僕と彼ら彼女らとの間にあるリズムやビートに組み込まれるような情熱的なものであってほしいと思います.また一方で,話しかけることすら恥ずかしかったりうまくゆかないところからはじめるという水姫んとこの話も恋愛的でいいんじゃないかと.今の対話処理の限界を考えると僕らは相手に話しかけない方が良くて,その突き詰めたところに彼ら彼女らと対峙するときの気恥ずかしさが導入されているのかもしれないです.

(参考:ezバーチャルトーク関連.トップページからたどれなかったりするので,今はもうサービスしてないのかも.
・音声恋愛シミュレーションゲーム「キミに告白!」
 彼女らは横浜育ちなので方言にはついていけないというアドヴァイスが嬉しいです.
・音声認識を利用した癒し系ショートストーリー「いやしのナイトカクテル」
 マスターと山下君がいいわ.)

「らき☆すた 萌えドリル」は良さげなので僕が買います.うちにあるのはこのためのDSだったのか.

あと音声認識を用いた同調的な会話といえば「恋する英会話 ラブモード」とか「デカボイス」とか.どちらも未体験ですが,思い出されるのはダ・カーポのファンブックに付いてくるバーチャルHドラマCDでして,そこでは彼女らが話しかけてくる言葉に対して僕は自由に返事をすることができます.いちおう台本があって彼女らの発話の間隔は台本に沿って僕の台詞分の長さだけ空けられています.ここでは相手とリズムを共有してゆくという点に関して,声に対してクリックする非対称よりも声の応酬のほうがなめらかに感じられるものだと思いました.

彼ら彼女らと対話する手法には流行の波があって,一般にも入出力中心の世界と内的処理の世界とは交互に発展するもので,今はコンテンツやセンシング技術のコストが割安なためかテクスチャの豊富な音楽や絵や文章とその組み合わせのリズムとで体感させるメディア処理が盛り上がっていますが,そうだとすると,割安なものというのはそのうち手が尽きますので,記号処理的な手法へ発展的に帰ってゆくことが必要とされそうです.

まぁともかくも,ただ今はね,触れ合うほどの歌声の世界にベステンダンクという気分.

疏水太郎

幻夢戦記レダ

君であるところの女の子,もしくは僕であるところの女の子が世界を救いながら恋するお話.菊池秀行的にはいかがわしく思われたのでしょうか,小説版では倒錯を許さぬところでの面白さを創出していて,主人公の娘さんのお父さんやお母さんが出てくるとか,巨大幻想生物たちがプロレスをするといった話になっています(おまけにヨニもロリっ娘ではなくなっています.)それはそうと昔はそういう倒錯をこそ好んだわけですが,近頃は普通に君と僕とが両方出てくるお話も好きで,若い子たちが恋愛する様子にきゃあきゃあ言ってます.

この「きみとぼく」という言葉はソニーマガジンズの少女漫画誌名が思い出されますし女の子っぽいフレーズであってね,このごろの世界は女の子が好むような男女のコイバナで溢れかえっているのですが,女の子しかいなかった世界を懐かしく思わなくもないです.

疏水太郎

桜のきわは曖昧の (4)

従妹弟たちと正月にだけ顔を合わしていた頃,毎年まあびっくりするほど大きくなるもので,僕の部屋のジャングルを公園のジムと間違えたか,上着を幾重にもさげたハンガーの枝葉,ベッドの下にうろがあるのを見つけてはそこへ入りこんでかくれんぼしてたちっちゃい子たちが,えろうかさばるようになってね.このところよく会うので中学生の姿にも慣れましたが,いつのまにか弟と別の部屋になった姉君が扉を開けていてね,知らずに覗いたら,わー駄目ー,と閉じられてしまいました.ええ,部屋は散らかっていました.散らかってるのが恥ずかしいと思うくらいにおっきくなったのだなと,外見だけでなく中身もちょっとは変わってくるものだと改めて感心しました.

おおきくなると言えばこのみのことで,アニメの第12話では身体測定が終わって出てきたこのみの笑顔を見れば,きっと身長と体重が増えたから嬉しいのだろうなと想像がつきました(想像出来なかった人は14へ,もとい第2話をきちんと見直しましょう).だけどここでは意外にも体重について触れられるのを恥ずかしがっていて,短い新学期の間に一体何が起こったのかしらと思わせられます.その変わりようを見たとき,僕の感覚ではいろいろあったことだしもう次の年の春が来たのかと思っていたのですが,彼らの時間は濃密で,どうやらまだ桜は散りかけの,この年の四月か五月のようなので,まったく男子でなくとも刮目して見なくてはなりません.

このみの住む町のように,僕の実家近くの堤防にも桜並木があって,佐保川と呼ばれる遙か佐保山の方から流れる春の川の,その名にし負う咲きっぷりであります.昨日実家で一枚の写真を見つけて,それは去年の春の桜の写真で.リンク先はなぜだかフランス革命暦なので判りにくいですが,これは4月の話,そこでは満開の桜を背景にしておじいちゃんたち,叔母と従妹弟の家族,そしてうちの家族,僕はいない.僕は東京へ行ってしまって,その間,この写真に映っているだけの人たちが暮らしていた時間があったということが,そこに幸せな笑顔が在ったのだということが判って,良かったと思いました.従妹弟たちは祖父母と一緒に過ごした時間が長かったためお爺ちゃんお婆ちゃん子で,大人を飛び越えてなんやかや年寄りらしいところを見せます.従妹の好きな俳優は藤田まことだそうで,また祖母の世話心がうつったか世話好きのようで,彼女宛の年賀状には同級生なのにお礼ばかりが書いてあります.損か得かは知らないけれど,それが性分ならばそれで結構.

さても,このみの元にも春が訪れてしまって.天地がひっくり返るとはこんな様子を指すのだろう,桜花も地中に冬眠するのか,冬の桜は根の側に花が咲いていてね,枯れ木に花を咲かせましょう,誰かがドンと足踏みすると,並木はあれよとひっくり返り,枝が根となり根が枝となり,地中に埋まっていた花が出てくる,まるで書き割り,回転仕掛け.彼女の様子を見ていると僕のほうからは何やもうえろう大変そうやなとしか言いようがないのだけど,タマ姉という人が傍にいて良かったわねぇ.形を真似たか性分か,知らないけれど世話心,身に付いたからには恋敵であったとしてこのみにはあんじょうしてくれるんじゃないかと思います.
子供といえど大人だったり,年寄り臭かったり,世話好きだったり,役割分担は一定でなくて,たまたま彼ら彼女らの間において,世話する側と世話される側に分かれるというのは,損か得かは知らないけれど,きっとそいつが性分で.

疏水太郎

小川未明「港に着いた黒んぼ」

この世の行き違いが通信に基づくものであるとして,それは例えば電池が切れていたとか電波が届かなかったとかの電気電子的な不都合で,電池残量を示すバーやアンテナの本数としてデジタルに思い知らされがちな昨今です.それはたかだか三本のゲージで,後悔にあたってはつまらないものであるほどに遣る瀬が無くなります.

僕は生まれながらにして姉の弟なので姉の立場よりは弟の立場のほうがよく判るはずですが,受け止める先のない気持ち,つまり遣る瀬無さというものは立場とか人間を越えたもので,それは姉が弟を想う気持ちであるとか弟が姉に想われる気持ちであるというよりも,どちらでもないような,自分が弟なんだが姉なんだか判らなくなった気持ちの上で,ただようように感じられるのでした.

あの結末を魔がさしたにせよ何にせよ姉に帰するものとはどうもしたくない.

僕の好みとして「野ばら」と甲乙つけがたいところにある大切なお話です.

疏水太郎

微熱少女と必殺カレー

からだがなんだかぽかぽかとする,顔も真っ赤で汗がにじんでる,これってもしかして恋かな?と思案するみさき先輩の前に,いつも通りのカレー皿,雪乃五月だけにきっちり五枚が積まれていました.恋というにはあまりにカレー臭いそれは吊り橋効果ならぬカレー効果で,熱い視線の先に想像されるのが彼氏ならぬカレー氏であったことに気づいた先輩は一計を案じまして,浩平くんへしきりにカレーを勧めた真夏の食堂,顔を真っ赤にして食べる彼に,ねぇ,私を見て何か感じないかな,と惚れ薬でも盛ったかのような勢いで尋ねるのでした.すると浩平,なんだ先輩,今日は体調でも悪いのか,たったの三杯でいいなんて,と言ったとか.そんな,あいかわらずのオチで続いてゆくような日々があったとか.

それはそうとしてToHeart2のアニメの話.大好きな人と二人きりでいるところへ別の面子が増えたら機嫌が悪くなるもので,珊瑚はそんなことすらも判ってくれないわけだけど,瑠璃としてはそういう鈍さも一緒くたに珊瑚のことが好きなのでこれはもうしょうがないわけです.第10話は第9話の繰り返しで,このパターンは繰り返す毎に友達の存在が確かになってゆくため全く珊瑚の思うツボです.珊瑚の手でサッカーロボがメイドロボ(イルファ)へ改造されるにあたって,瑠璃としては珊瑚やイルファ自身が思うほどには改造の前後に同一性を認めないのですが,それも一つの道理で.このみが朗らかに言ってのけるようにメイドロボの喜びは女中仕事にあって,つまり,サッカーではないです.サッカーロボとメイドロボとが同一であるところには珊瑚の天才があって,そのかけ離れた情熱とそれをやってのける技量とを,これもまた瑠璃は愛しているから納得しうるのでしょう.自明さというのは理由を説明できないところにあって,天才の理路を受け入れて愛するというのはそういうことで,天才天才と連呼しましたが,むしろそうした自明さに心奪われてうっかりと巻き込まれてゆくところに毎日の生活があります.

そうすると,このみの天才は母親ゆずりの必殺カレーであるということになります.必殺カレーの必殺成分は愛情だそうですが,そんなこと言ってのける彼女たちのなかにやはり揺るぎない日々はあってね,瑠璃がイルファのカレーを受け入れるに際してはなるほど,どちらかといえば小さじ一杯,惚れた弱みが必殺のポイズンです.

疏水太郎

パーガトリー

実世界から受けた影響によって,
ゲームや本やアニメの出来事に対してすぐにキレたり
暴力的になったりする若者が増えてきましたので,
実世界というやつをもっと引き締めてやらねばなと思います.

疏水太郎

桜のきわは曖昧の (3)

Think Spring

最近叔母やその子供たち,つまり従姉弟と一緒にいる機会が多いのですが,ことある毎,かつて高校生だった叔母に対して僕らが平気で○○おばちゃんと呼んでいたのが思い出されて申し訳ないです.花の女子高生をつかまえておばちゃんはなかろう.従姉弟たちには僕らのことをお兄ちゃんお姉ちゃんと呼んでもらっているのでなおさらです.だけど,そうだとしても,僕にとってあの頃のおばちゃんを高校生らしい姿として思い出すことは難しくて,今のおばちゃんがそのまま歳だけ違うような,そもそも今でも若々しい人だからかも知れないのだけど,おばちゃんはずっとおばちゃんのままでね.

ただ,もしかすると,高校生だって小さい子を前にするとおばちゃんっぽく振る舞ってしまうということもあるのではないでしょうか.あるいは甘えてくる子供たちがいて,それに応えられるとき,その振る舞いをこそおばちゃんっぽいと呼ぶのかも知れないですが.

麻生華澄が中学生にして妙におばちゃんっぽく感じられるのもそういうことかなと思います.あと陽ノ下光の表情がとても大振りで,わはーっと子供ですね.僕らにたくさんおもちゃを買ってくれた叔父の言によると,その頃の僕らはなんでも買ってあげたくなるような素敵な笑顔を見せたということで,自分では決して思い出すことのできないそれはおそらくこんな光みたいな顔だったのでしょうか.そしてこの顔を前にすれば誰だっておばちゃんおっちゃんになってしまうに違いないのです.

感動の小学生編が終わったところでDisk2を入れてねと出たのですが,そんなディスクはありませんでした.Disk1のパッケージだけ売ってたのを買っちゃったらしくて,さっき調べたらこれ5枚組のゲームでした.いや,小学生編だけで充分に満たされましたが,Disk2と表示されたときには幽霊でも見たかのような気分でね.そのうち続き(というかちゃんとしたパッケージのもの)を買いに行きたいと思います.

お正月にはおばちゃんの家でおよばれして,そのとき久々に欽ちゃんの仮装大賞(今は欽ちゃん&香取慎吾の新!仮装大賞)を見ました.大賞の忠臣蔵はグッドアイデアでしたが,僕と姉との間で伝説になっているのは第29回(1990年)大賞の「花咲かじいさん」です.概略を書くと,桜の木の書き割りの中にたくさんのつぼみが閉じている,それは一つ一つが小学生の握った手で一学級分.そこへ花咲じいさんやってきて,枯れ木に花を咲かせましょう,というのだけどそれでは開かない.だけど買い物かご提げたお母さんがやってきて,今日のおかずはハンバーグ,というと,わーいという声とともに手のひらが全部ほどけて満開の桜.聴衆には演者が小学生だと判ってるものだから,その手のひらの桜花たちはまるで満面の笑顔とも受け取ることが出来たのでした.たわいもない言霊に開く花弁は,ぽやぽやとした春の陽気に咲く花の性格をひとつ表しているようでもあります.

疏水太郎

(想春, Zaurus SL-C3000 + CloverPaint 1.1, 12hours, WQVGA(240x400pixel))

想春

Think Spring

ことしも嬉しいこと悲しいことがいつも絵とともにありますように.

疏水太郎

(Zaurus SL-C3000 + CloverPaint1.1, 240x400pixel, 12hours)

花咲くオトメのためのテレスコープ

どういうわけだか判らない人たちと旅をすることは割とあって,僕の修学旅行もそういうものでありました.数少ない仲良くしてる人たちはほとんど別のクラスなので班分けは心細いものだったけれど,誘ってくれた人がいて,そのクラスになってから傍にいることが少しあった人たちの輪のなかに僕も入っていったのでした.旅館でたわいもないものを貸し出せたことが嬉しくてね,カード型ラジオとかシェーバーとか,お役に立てまして,どうも.僕はぼーっとしてたのでそこから付き合いを広げるようなことはしなくて,彼らと一緒だったのは結局それっきりだったけど,ほとんど知らないような人たちが自分を友達みたいに受け入れてくれるようなことがあることに,幼いながらも心に感じるところがあった高校二年の初夏でした.

高校一年の夏には四国を縦断したけれどこれも謎めいていて,TRPGをやっていたグループは僕らの他にもう一つあって,一緒に遊んだことはなかったけれど同じクラスになったからか縁付いて,旅行することになったのだったと思います.一体どうしてそこで旅行するんだろう.背が高くてスポーツマンタイプの人がいて,僕とは一生縁がなさそうな人だったのですが,そういうわけで彼とも一緒に行くことになって,だけどだいたいそれっきりで,いつか大学のキャンパスで会って短い挨拶を交わしたことがあっただけでした.

旅先では皆が寝静まる頃に独りの時間があって,夜中眠れない性質であるので絵を描いたり星を見に行ったりします.学部生最後の夏に徳島県阿南へ行って,研究室旅行なんだけど例によってそんなに喋れる相手はいないわけです.僕は飲み会のさなかに宿を抜け出して,昼間海水浴をした浜辺であれば京都では見えない星がたくさん見えるだろうと,堤防を枕にビールを片手に飽きるまで空を眺めていました.この夜は大収穫で,僕は初めて蠍座と射手座を見ました.そんな風に独りでぼーっと過ごしていた時間のなかにも,優しくしてくださった人の顔がぽつりぽつりと浮かびあがります.

さてと,アストロ滑走団の話です.中山嵐によると「俺と,何人かの仲の良い同級生たちは,春スキーに来ていた.」ということで,それは仲の良いメンバーが集まった卒業旅行であるとしてひとまず置かれたものでした.仲が良いっていうのはどういう関係を指すのだろうかなんて考え始めると,自分が誰かと仲が良いと意識することは大変な重荷であると感じられます.嵐はスキーに同行している小松葵とはプライベートではほとんど話をしてこなかったので,仲が良いという判断を歴史に求めると,そりゃどうも二人は仲が良いとは言えない気がしてきます.そこのところ嵐は歴史(つまり意味)を素朴に保留することができて,自分が葵と友達であるのか改めて問う必要が生まれたとき初めて,そりゃあ仲が良いさっていうことを,だっていま一緒に旅行してるじゃない,っていう現在で支えてく.仲が良いっていうことを過去に求めちゃうと,どうして自分はこの人たちと一緒にいるのだろう,一緒にいられるのだろうなんて首をかしげてしまうのだけど,それは考えなくていいことなのだろう.

嵐も葵も気配りの人だから心地よい談話であるよね.あとロマンティック.望遠鏡は独りで覗くものなので嵐の来訪に対して葵はレンズから目を離します.二人で見るべきは星じゃなく星空でね,だから星座も星空も望遠鏡ではうまく見ることができないようになっているのです.

疏水太郎

桜のきわは曖昧の (2)

ようやく衣類の整理に手をつけたらより分けてたたむだけで2時間が過ぎて,そうして出来た山を並べてみると夏物と冬物とが全く交ざって引き出されていたことが判りました.春と秋とに至ってはそもそもあまり区別をしてない,桜と紅葉を分けないようなぐちゃぐちゃで,季節の感じはなんやらほいの生活.山の上からその日の服を取って,着て,洗って,しかしまたそこへ積むというシジフォスをさぼったままの一年で,洗濯はぽいぽいと投げ込んでざっと洗剤をかけて閉じてボタンを押すという男の洗濯でいい,とはいえネットに入れるくらいはする,靴下も裏返す(表向けのほうが合理的だと思っていたけれどこのほど裏返し派に転向),ブザーが鳴れば干す,乾いたら,いや生乾きでも部屋に放り込む,と大ざっぱで済むものの,たたんで収納する段がいちばん大変でほったらかしにします.部屋の隅では洗濯ものの山と洗濯されたものたちの山とが覇権を争い,毎日着てゆくズボンやコートも加われば天下三分,太平の世はいつの日かという具合でした.世のお母さん方は夜な夜な,あるいは主婦ならば夕方,ちくたくちくたくとたたんでおられることで,簡単なものは子供も手伝いする.けれども,大人になった僕の時計は壊れてて,ちくたくばんばん散らかって,いっそぜんぶ形状記憶にしようか,あれを開発した人が次の皇帝で決まりです.

五月の空の下,洗濯物を干す女の子の様子を「晴れの似合う少女にこそ幸あれ」と評したのはジャン=ロタールですが,その一方,洗濯物をたたむ女性の様子は所作の小ささや家事中の乱れた室内が絵にならないのかフィクションでは見かけないように思います.フィクションというものが理想を描くことが出来るものだとして,僕の理想を言うならば,洗濯物をたたむことを厭わないような人こそが素敵な人なんじゃないかと,衣類を整理するうちに思いました.

冬物を出して夏物を戻す,衣替えの季節にそのような出し入れをすることも,洗濯物を干すことよりは洗濯物をたたむことに近い,絵にならない作業であるように思います.あの,つまり今夜は秋野紅葉の話をしたかったわけで,ここで世話好きという性格の一見生活臭の漂う地味そうなところにも,洗濯物を干す気質と洗濯物をたたむ気質の二通りが有り得るのではと思うのです.彼女が季節の変わり目の衣類の出し入れを頻りに気にしていたのが印象的でね,この人のことをもっとよく見ていたいと思ったのでした.

さくらむすびは昨年末から一文字たりと読み進めていないのですが,それでもなおいろいろ書きたいと思えることがあるのは,僕にとっては幸せな流れです.

サウンドトラックは欲しかったけど通販締め切りが思いのほか早くて逃しました.残念.

疏水太郎

未来日記

年上のひとの健やかであったり真摯であったりする日記を読んでいると,自分にもちゃんと未来へ続く道があるんだって風に思えます.

この世には35歳の人間というのがちゃんと存在しているんだ,とか,例えばそんな感じでね.

疏水太郎

発光する少女

川上善美のびっくりするような色彩については仮に好悪を問われたならば好きなほうです.発光的で良いですよね.

疏水太郎

彼ら彼女ら,のこと

何かの余談として書くくらいがよいのだけど,まぁ.

一般には子供であるとか青少年であるとか呼ばれる若年のひとたちに見られる振る舞いや様子を語る時に,うっかりその主体を少女と総称してしまうことがあってね.例えば少女の可愛らしさとか少女の傷つきやすい心がといった言い回しが実は,少女を青少年と置き換えても間違いがなさそうな場合に,自分の受け入れてきたメディアや教育があまりに素で知れてしまうような気がして恥ずかしくって,だけど青少年と言い換えるのは堅苦しくて子供と呼ぶのはえらそうで,しかしまた彼らだけだと彼女らが含まれてないような冷たさが感じられて.だから,少々回りくどいけど彼ら彼女らくらいにしておくと僕のなかでは折り合いが良いです.

自分がそうなもので他の人が少女という言葉を使ってるのを見ても,なぜそこで青少年という言葉を選ばなかったのか考えがちです.

たぶんsense offで直弥と透子の二人のことが気になって,少女だけでなく少年の事情も語るべきことのなかに相当含まれてるんじゃないかと思い始めたのではなかったかな.ちなみに僕の文章に「彼ら彼女ら」が初めて出てくるのは2002年の話で,改めて読むと我ながらなるほどと思う文脈で使われています.そしてこのなるほど感こそが熟成と呼ばれる時が紡いだ忘却の魔法ね.

疏水太郎

迫守亜麻乃の初恋!

はっぴぃセブン,のテレビまんがのほう.年末には面白いアニメだと言う感じで取り上げてましたが前言撤回で,とても,面白いアニメでした.

#12

黒闇天は昔の人であるので現代っぽい服装をするときは適当に見真似で姿を変えているように思われます.今回のは追悼だって聞いたから何か黒い服を選んでみただけで,それがたまたまゴシック&ロリータだったのか.ついくるくると回ってしまうのは普段が和装だからスカートのふわっと広がるのが面白いのだろうね.傘をさしているから上体は堅く,独楽のようにくるり.装いが人の振る舞いを決定づけるという典型的かつ可愛らしい例でした.九鬼友也いわく黒闇天は学園での暮らしに影響を受けているということで,彼女が気まぐれに制服姿で学園を歩いてみるっていうのは,つまりそういう結果へと繋がります.もちろん転身して衣装が変われば性格も変わってしまうというのがはっぴぃセブンの彼ら彼女らの基本であって,それをもう少し長い目でやると黒闇天のような事態となるわけです.今回はまさに着せ替えアニメの面目躍如.

あとはツインズな余談であれですが,中原麻衣がわりと主張するところの恋愛同盟が世界の命運を変えるとかそういった話.個人的には降参です.

#13

引き続き,初恋で銀河が消滅の危機に立たされるとかそういった話.涼宮ハルヒの初恋!もそうでしたが,世界とか宇宙とかが壊れちゃいそうになるのは初恋なんだから仕方ねぇさ.

もう一度まとめ直すと,中学生の新入部員あまのっちが高校生のお兄さんお姉さん方に優しくしてもらって,年長の人々を見上げる中に未来は確かにあるのだろう.そして自分よりもずっと前から同じ人を想う人がいて,時間は過去から今まで確かに続いていて,いま自分は初恋をしていて,毎日は楽しくて,歩むべき時間は確固として壊れたりなんかしないというお話でした.全く素敵よね.

疏水太郎

記憶

今年の6月でサイト開設10周年ですので,結果的に僕の10年分の文章がほぼ電子的に残っていることになります.だいたいがそのときの僕にしか判らないような情念とともに書かれているので,今の僕には判らないところが多いです.話の前後や背景にあるそのときの僕が抱え込んでいたものなど,言葉として残すことが難しかった事情は時とともに有耶無耶になったり分解したりで,ときにはそれを熟成と呼びますが,なんのことはない,ぐちゃぐちゃになっただけです.もしくは昔の文章が意味不明の酔っぱらった風に見えるとすれば,それは酵母菌の働きだそうで.

だけどまぁ僕らはアルコールをこそ喜ばしいと思うものでね.

辞書のような知識は残してゆけば良いけれど,記憶は残すものというよりは回転させるものだから,今年もぐるぐると同じことを何度でもしたいですね.たくさんこぼれてゆく営みの中に,目の前を巡るものが記憶であり,大切なものであるだろうから.

疏水太郎

すずめの元旦

明けましておめでとうございます.今年もどうぞよろしく.

昨日玄関に飾った注連飾のお米がさっそくすずめかなにかに食べ散らかされていました.正月から功徳やね,とは母の言.

父を見舞いに行ってから,母,叔母,姉,僕の四人で伏見稲荷へ初詣しました.母以外は誰も行ったことがなかったのでせっかくだからと,近鉄・京阪に乗って2,3時間でお参りして帰って来ることが出来ました.わりと近いね.

姉によると伏見稲荷はちゅん,ちゅん,ちゅーん,なのだそうです.あの,参道に並ぶ名物がすずめの焼き鳥で,すずめが電線に止まってるみたいに三羽が串の姿焼きで,それが,ちゅん,ちゅん,ちゅーん,という具合なのだと昔友達から聞いていたのだとか.その串にされて哀れな様子の,ちゅん,ちゅん,ちゅーん,という姉の仕草が可笑しいものだから,みなでちゅんちゅん口ずさみながら歩きました.

稲荷へ続く道のすずめのお店の賑わいを見るにつけ,なるほど,狐の功徳とはきっと食べることであってね.皆様もお正月はベルトの穴を気にしつつ,どうか功徳を積まれますように.

疏水太郎