永久アリス #5

きらはがこれまでに見せてくれた私服をもう一度ぜんぶ披露してくれるお話.赤青緑にパジャマ(私服?)の四着です.漫画版のきらはの私服はアニメよりもひらひらのゴージャスですが,あまり披露される機会がありません.漫画版の軽快さは女の子が着替えなくてはならないような遅さ(朝昼夜の変化,日付の変化)を廃しているわけですが,いちいちお色直ししてくれるのも祝祭的で嬉しいわね.ウェディングチェンジ!

あと,やっぱキャラ表にふくれっ面のある人は違うぜ.よくふくれてくれます.あんたはおモチか.

疏水太郎

ウソニワメモ(3)

「で,もう早く終わって,プラモ作りてぇ.」(p.71)どうにも窮まってしまった時に,田村くんが走る人であったのに対して,牧生くんは作る人であることを予感させる一文です.牧生くんが中山りあのことを想って側にいる局面(「心の内(後)」「月の川」)では却って,彼は彼女のことを見ずにプラモ作りへ心血を注ぎます.集中がいるのであまり返事とかできない.彼女のことが大切であるほどにプラモの完成という彼なりの魔術的儀式が必要なわけでね.中山りあはその術式を理解しているのか側で邪魔しないようにしていて,なんだかうらやましい二人ですね.

田村くんも牧生くんも同じインドア派であるのに,田村くんが走ることを術式として選ぶのはおそらく松澤小巻という女の子が走っていたがためで,もしも彼女と出会ってなければ,田村くんは相馬広香に対して走るのではなく,村千鳥の直垂に折り烏帽子,というような鎌倉魔術を選んでいたかも知れなくて,いざ鎌倉,という言葉が走ることとして具現化するには,走る松澤小巻という触媒が必要であったように思われます.

ウソニワから逸れてきましたが,つまり,松澤小巻が走っていたからこそ田村雪貞も走る必要があったのだ,という話をことさらに言いたくなった.あのどこの校庭にもある麻薬的なループを,二人なんだかぐるぐるで.

疏水太郎

ウソニワメモ(2)

わたしがやらないと子供たちが死んでしまうと思ってた,みたいなことをいつか母が言っていて,それは仕事もそうですが主に三度の食事を与えることでして,すぐにお腹が減って泣くか弱いものたちを毎日見ていれば,およそそういう考えに至りそうではあります.この人に食べ物を与えるという感覚は僕には持てないもので,やっぱお母さんにならなきゃ判んないことかなと思うのです.

滝瀬唯が何かにつけ人にパンを持たせるのは,なんだかお母さんみたいです.女の子は常にキャンディとか持ち歩いてるもんですが,それとは違うよね.母は僕がひとりで食べられるようになってもむかしの習慣が抜けないのかいろいろ食べ物を持たせます.東京の大家のおばちゃんも京都の大家のおばちゃんも,玄関先で話してるといつも奥へなにやら取りに行って,食べ物の入った紙袋を持たせてくれるのです.滝瀬さんを見てるとどうもそういうことが思い出されます.ああ,わざわざ家まで取りに入るし!(p.154)ここで滝瀬さんが中山りあに持たせたのは牧生の好きなパンと裕貴の好きなパンであって,食べ物を与える,つまり自分が生かすとか死なすとかいうセンスにおいて,滝瀬さんの目には中山さんが男の子みたいに見えてるのかしら.面白いです.このときの中山さんは髪が男の子みたいだしね.

牧生くんが中山りあにご飯をあげたことももちろん見逃せないです.ヨモツヘグイとか同じ釜の飯とかいうのは食べたほうだけでなく与えたほうも縛られるものじゃないかな.

疏水太郎

ウソニワメモ

呪い≒女の子が生き難いわけ,として.

みずいろの清香・・・男の子は呪いを知らない.女の子は呪いを知ってる.読み手は呪いを知ってる.呪いは解ける.
こなたよりかなたまで・・・男の子は呪いを知らない.女の子は呪いを知ってる.読み手は呪いを知らない.呪いは解ける.
AIR編・・・女の子は呪いを知らない.読み手は呪いを知らない.呪いは解けない.だけど少しづつ変わってく.(リンク先はここまで古くなると文脈が落ちて僕自身でもよく読みとれないのだけど.)

僕らはむしろ自分にかけられた呪いのようなものに規定されてこそ生きているのではないかと思われます.たとえば,小暮琴美は子供の頃の冗談みたいな約束に寄り添わずにいられないのだし(「なんでかな……ほんと,勝手な,僕の思いこみなんだけど.運命みたいに思っちゃってる.」),もちろん中山りあも本人にとってすら理解できない呪いに規定され続けてきました.男女が心通わすに当たってどうも呪いの解けるタイミングと重なりがちなのは,二人で生きてくことがまた別の呪いであるからかも知れません.いや,今回その件はあまり重要ではなくて,これらの呪いっていうのが,相手にとって理解する必要のないものだったり,本人にとってすら判らないものであるというあたりが上記作品においては好みです.

「そうか,無茶には無茶で対抗すればいいのか.」(p.115)あたりは,杜浦直弥の御陵透子に対するアプローチのようで.あと,美奈萌がまひるのことをやる気満々に理解してないというのは我ながら名言として思い出されました.

ウソニワではおよそ呪いは理解できないという態度が支持されていて,その一方で中山りあの呪いは解いてやりたくて,だけど「こなかな」のような無茶はしなかったというか,女の子が生き難いそのわけをみんなが(男の子が,女の子が,読者が)知ることを選んだので,そのための断り書きとして呪いは解かなくてもいいんだということを浅井操に言わせたような気がします.なんつか多分,僕の願望としては,ですが.

どちらかというと理屈が優勢であると思います.だけど呪いを解くにあたって「方法一.りあが作ってる「庭」を完成させる」(p.192)という理屈ではないよく判らない選択肢が残されているあたりは良いです.

疏水太郎

送り雛は月色の

ウソニワのせいでまだ眠らせてもらえない感じです.全き春が訪れる前に.

一月頃のことでありましたか,新聞で唐蝋梅(トウロウバイ)なる花が紹介されていました.梅ではなくロウバイ科の木で,冬に咲く花は珍しいので側にいた母に聞いてみると,ずっとむかし,という言葉では想像できないくらいのむかしの思い出を話してくれました.僕の叔父,つまり僕の母の弟が小学生だった頃,校内や家の外の世界で見つけた花をよく姉のために持って帰ることがあったそうです.そのなかのひとつに小学校の校庭で見つけてとってきた冬のその花もあったということです.それはどんな可愛い弟だろう!須藤さん家のゆずがママのために外のものを持って帰る様子が思い出されましたが,その叔父も,もう僕が子供の頃にこの世を去りました.

全き春が訪れる前に,もう一題.僕らの祖母はほんとうによくしてくれて,姉が生まれてから初めての桃の節句に,その年,ものがなくてなかなか大変だったという世情のなか雛壇を贈ってくれて,それは家にスペースがあった何年かの間は毎年のように組み立てられて,僕もよくお飾りの小さな引き出しを開けたり閉めたりして遊んでいた記憶があります.だけど,そのうち場所がなくなって,ミシンの上にお内裏さまとお雛様だけを飾るようになって,いつしか出さなくなっていました.さて,先ほどの叔父の幼稚園から高校まで一緒だった友人が奈良の特産,一刀彫のお家でして,祖母は僕の姉の成人式の祝いに今度はその方の彫ったお雛様を贈ってくれたのでした.高級な品であって.昭和56年のこと,その同じお雛様を全国植樹祭につき行幸のあった昭和天皇が逗留先の奈良ホテルにてお買いあげになったといういわれのものでした.しかし,お内裏さまとお雛様がひとりずつのその立派なお雛様も,タバコの煙で悪くなるということで結局出さなくなっていました.それが今年,タバコを吸う人が家からいなくなってしまって,また,家を大整理したときに出てきたこともあって,居間のテレビ台の横っちょあたりには新しいお仏壇と古いけど新しいままのお雛様たちが,なんだかまだ慣れない感じで並んで座っておられるのでした.

僕の五月人形はいつどうなったのだったでしょうか.お雛様が欲しいと思ったことはありませんが,もしも僕が自分の小さなお庭にいてもらうモビルスーツを決めねばならないとすれば,それはやはりサイコガンダムMk-IIにお願いしたいと思うのです.僕の場合,ロザミアっていうかプルツーなんですが.それで,ストライクガンダム,というか僕の場合,主役機はZZガンダムということになるのですが,僕の想像の夜に月光を曳くルナチタニウムのそれは,お舟に乗せて流し雛とするのが良いのでした.

疏水太郎

清水マリコ「侵略する少女と嘘の庭」

ずっとずっと遠いむかしにこの小説の感想を書いた記憶があるのですが,思い出せないのでたぶんもう一度書き直します.

まずは牧生くんと中山さんの紡ぎあげる素敵文・素敵会話に圧倒されますので,いまは言葉が出てこないわ.とはいえ黙っているのも胸が苦しいので一番簡単なところだけやっておくと,「キラー」と「悪魔」は「悪魔キラー」という組み合わせで用いられるのがおそらく順当で,男の子をそう呼ぶならば強そうであるし,女の子ならば悪くてもちょっと血の気の多い女の子という感じの呼び名です.「キラー悪魔」というのは前後をひっくり返しただけですが,悪魔をキルする人間が言葉の素朴な入れ変えによってキラーかつ悪魔になってしまう驚きがあってね.もちろん悪魔キラーもキラー悪魔も言葉は使いようで,「そんな馬鹿,今度いたら悪魔中山に言いつけてよ」とか「あいつは最強のキラー悪魔だ.そんな簡単にやられるはずない!」とか時に頼もしいニュアンスを帯びるのです.ただ,ここでもう一度文脈を剥がしていって表層的なところを見たいのですが,悪魔というのは「キラー衛星」の衛星とは違って悪魔自体が殺人や人食いを想像させるため,キラーと改めて形容されることは少なそうであるという選好,ぐらいまでは剥がした先にあってよいものとして,キラーとか悪魔とか言う辞書的にはそれぞれ悪い印象をもつ語は,もしも素朴に悪魔合体したなら「悪魔キラー」としてよりマシな存在になるだろうところを,キラー悪魔という言葉はキラーと悪魔を独立した語として印象づけます.キラー悪魔中山,と最後に駄目押しでもう一つ名詞が続けばなおさらで.文脈によって読み変えられることはあっても,文脈から一歩離れるとキラー悪魔はやはりキラーであり悪魔であるので,しれっとして悪い子です.全般に中山さんの行動は文脈によってごろんごろんと読み変えられてしまって,ときに感謝されたりもするのですが,口の悪いところはやはり口が悪いのだという点は,うまいことキラー悪魔中山という二つ名とその使われ方の中に織り込み済みなのであります.この一周して帰ってくる動きがいちいち可笑しくて好き.

というだけに留まらずともかく名文名言続出なので採り上げてゆきたいのですが,きりがないや.

庭の話はそれこそ何度もしてますが,今回言うべきことはまず,男の子にも自分のお庭があるんだ,っていう話は梨木香歩も涼元悠一(一ノ瀬ことみ)もやってくれなかったぞと.そして,中山さんが1/144スケールGAT-X105(ストライクガンダム)を「この人」と呼んでくれるところは一番好き.牧生くんは「これ」呼ばわりするのでそこは彼女の心性とは異なるわけですが,それでもプラモの部屋が男の子のお庭に見えるのは,そこからモビルスーツたちが中山さんのお庭へ移住する姿が一種の株分けのように思われるからでね.

これも何度も言うけど,幼いような感じのことをするときには意図せずして幼い容姿や服装が伴ってしまうもので,牧生くんがおもちゃの庭をつくる中山さんを見るときにはもちろん彼女は男の子みたいな短い髪,しかもお母さんが切ったような(ここでは彼女が自分で切ったのだけど)たぶんぼさぼさで,あとおさがりの古い服を着ているのです.別に彼女は自分を幼く見せようと意図したわけではなく,髪を切ったことには別の理由があって,おさがりの服を着ているのもいつものことなのですが,そういうことが何故だか牧生くんが中山さんの幼いところを発見するにあたっては絶妙の巡りあわせであってね.作中の言葉をおよそ借りるならば,不思議とか偶然とかいうやつはどういうわけかやってきてしまうのであります.

あと些細なお気に入りを言えば,中山「うるさい.もう死ぬ.」とか不意に乱暴になるところ.このリズムがね.牧生「で,もう早く終わって,プラモ作りてぇ.」同意.牧生「プラモ好きな中学生に無理言うなよ……」そういう理路を心底うんざりした気持ちで口にする彼の,なんですかこの可愛さは.

とか羅列が始まりましたのでこのへんでやめときますが,以上の文面とは裏腹に,胸のほうはずっと苦しいまんまです.

京都の片隅に素敵な呪い.内緒で戦士募集中.

疏水太郎

いつか魔女になる日まで #2

ほしのまほう(Zaurus SL-C3000 + CloverPaint 1.1,480x640pixels,15hours)

昨年の11月ごろから描き始めていたものです.13話構成ならば6話か7話目に置きたい類の絵なんだけど,先に描き上がったので載せてしまいます.

画面が小さいため,1つ大きなコマのある3コマ漫画にして見た目を派手にしています.形は3コマだけど意味的な区切りとしては4コマあるいは5コマあるつもり.

D.C.S.S.本編のほうは気長に視聴しています.そのうちいろいろ書くのではないかと.

疏水太郎

爆弾拾遺

「トトカミじゃ」 蒲田くんがいつの間にかトトカミサマを「あのヒト」と呼ぶようになるあたりは,僕が蒲田くんたちのことをあの子たちと呼ぶようになる過程と被さるみたいで親しみがわきます.薫さんのモチーフ話に乗っかってみると,じいさまの代とかえらい昔っから時を超えて生きてる小さい少女神に男の子が奉仕する羽目になるといえば「ゆのはな」.神の名において奉納!

とはいえ,先生とか図書館とかあの子たち見てるとやはり早見裕司の逝川高校文芸部がより直截に思い出されるのですが.ああ,こちらでも

「出席番号0番」 最後,月本(?)が本物の月本であるか日渡であるかはけっこう大事なのですが,日渡千晶がそもそも男であるか女であるかは結局のところ不問であるあたりは助平でよいかと.モチーフはもちろん「暗黒SNOW」ていうか「絶望」.

早めに降参しておくと,残りのモチーフ当てはネタ切れ.広大なゲームの海のなか,高々自分の引き出しにあるものしか持って来れないわけでして.

「むかし,爆弾がおちてきて」 平和や健やかさを祈念する像ほど美しい裸体なもので,青少年であればブロンズの彼氏彼女を見てどきどきしたり恋したりもするよね,僕とか,というお話.それに気づいてしまったとき,他人にはめったに言えねぇし,それに僕だけが知ってることにしておきたいからそもそも言いたくないとかそういう気持ちもよく伝わってきます.そして,彼女を目指す”ぼく”にとって,ミチさんが裸じゃなくもんぺであるところとか,じいちゃんの遺言があるとか,言い訳可能なところが男の子としては有り難いです.

疏水太郎

ケーキ食べない

永久アリス#4.漫画のほうではきらはがありすのケーキを食べることにまつわる微笑ましいお話なのだけど,先日も書いた通りアニメのきらははありすのケーキを食べないです.きらはを描くということはきらはに気持ちを語らせるということなのかも知れないけど,ありすのケーキを食べる余裕のない彼女の言葉を聞いてると泣けてくるのでした.内面という奴を探ってみたくなるのは全く人間らしいのですが,ケーキを云々するような表っ面も人間の幸せであって,もうこうなったら仕方ないけどあんまり思い詰めないでねぇ.

漫画のアカネ登場回ではありすのほうが大変で泣いちゃったりする.そりゃ本気で泣くだろうという状況なのですが,あーんあん,という可愛らしい擬音のおかげで深みにはまらなくて助かります.

つまりね,D.C.を例とするならば,アニメにおいて芳乃さくらの立つ画面の深刻さが,原作ゲームでは「第1回:さくらちゃん救出作戦会議」みたいにかわされがちであったというような,傷口への処し方の違いは常に感じられるところです.

疏水太郎

おにいちゃんが欲しい祈り

おにいちゃんが欲しい祈り

「きっかけは何だったっけ?」(永久アリス3巻)

桐原きらはにとって,ずっと昔,どうしてお兄ちゃんが欲しいと願ったのかはよく判らなくて,確かに幼い頃の望みというのはたいてい理由を思い出せない類のものではあります.そんな風に理由すら思い出せないのだけど,きらはは兄のことが好きで,お兄ちゃんが欲しいと願った過去の記憶はそのそもそもの理由が忘れられていたとしても,現在の気持ちを強化しうるというのが面白いと思います.例えば,僕がいま葱を好んで食べるのも,母から幼い頃の僕がそうだったと聞かされたからでね.葱と兄を一緒くたにするのは可笑しいかもしれませんが.

絵のほうは,MacBook Pro + Intuos2 + Painter IX.5 (体験版) で.ザウルスで描いたほうがいいような絵にしてもしょうがないので,ざくざくっと描いてみました.7年ぶりのMac絵です.Mac絵とWindows絵を区別することに意味はあって,僕がはじめてCGを描いたのがMacであるから,これはちょっとした信心です.

あと葱については,まぁ,あれです.葱が好きとかいわれると他人とは思われません.

疏水太郎

同い丈イズム

おゆい #1-#5.毎回,人々の惚れた腫れたな様子が挿入されて,まずは男女間なんですけれど長屋の部屋割りに代表される女ともだち同士のえっち臭さもあって,あと先代天女たちや妙,雅のか弱さを併せて見ると,おしなべて色気のあるお話ですよね.好き.

#3

転んじゃうと起きられないような女の子が2人もいるのが可愛らしいです.女子高生メンバーの半分がそこまでか弱いというのは当たり前のようであるけれど,戦う女の子たちのお話としては意外.

#4

12歳の鈴ちゃんが小さなポン太くんのことを「すごく格好いいよ」と評したところでびっくりさせられます.僕の背の高さからは可愛いとしか評しようがないのですが,背の低い人たちの世界ではそういう対等の言葉がすっと出てくるのでした.

余談ですが,ゲームのほうのなのはでは一部始終なのはの背の高さでものを見るので,同じくらいの背丈のクロノくんのことが格好よく思えてたような気がします.アニメのほうはまだ見てないけど,表題は同い年イズムを真似てみた.

#5

あほのゆい,ってなんとまぁ可愛らしい二つ名.

女子高生メンバーの中で最年長が雅(5月)で最年少が唯(2月.早生まれ!)というのは,早生まれの僕としては見逃せないところです.1年近く離れてるわけで,家事とか人の手伝いについては生まれた環境の違いで唯のほうがしっかりしてるのは当然として,それ以外に目を向けると足りないところがたくさんありそうなので,どうかお姉さんが助けてあげてください.

疏水太郎

ある日,爆弾がおちてきて(改)

表題作について端的にまとめ直し.心臓のために服用するニトログリセリンや,病で破裂しそうな胸の様子であるとか,広﨑という自分の名字,ひかりという名前,ちょっと気になる男の子の長島という名字,彼のことを気になるがゆえの胸のどきどきなどから導かれる涙交じりの諧謔として,広崎ひかりは爆弾というものを連想するのではないか,と想像させるお話で,昔ちょっと気になってた人の訃報を聞いた時に頭を駆けめぐる,がつんとした,無茶苦茶の,瞬間のイメージの渦を,なんとか理解できそうなお話として言葉を用いて引き延ばして描くならば,想像の働く場そのものを描く必要があって,それは喚起力のある,因縁めいた言葉で構成されることになるのでした.奇抜だとは思うのですが,広﨑,長島,ピカリ,という言葉なしには有り得なさそうなお話だと思います.

疏水太郎

泉鏡花「化鳥」

たいくつな雨の日に男の子が窓からお外を眺めていて,目に見えたものについていちいちお母さんに報告するのです.それをお母さんは何やら家のことをしながら聞くともなしに聞いています.男の子がずっと喋ったり思い出したりしていて,お母さんが聞いてるという図が良くって,お母さんもいろいろやかましかったり恐ろしいことを言うようなのですが,それはそういうことがあったと男の子のほうが振り返るのであって,お母さんは現在のものとしては饒舌ではなくて.お母さんの言葉というのはなるほど現在聞くというものではなくいつも思い出されるものなのでした.

雨が降っていて,つまり止んだときがこのおしゃべりの終わる時で,結局のところむかし出会った美しい翼の生えた姉さんは母様だったのだろうか,曖昧のままに,雨の上がる頃には言葉だけでなく目の前の母様の姿さえも現在形ではなく思い出される過去のものとして,「まぁ,可い.母様がいらっしゃるから,母様がいらっしゃったから.」とぼやけてゆくように思えるのでした.

お母さんがよく昔語りしたという雨の日.男の子にしてみても目の前にいるはずのお母さんの,なぜだか過去のことほど気になってしまうその言葉や姿などが詰まった雨の日というものの,記憶を呼び起こしてゆく様が好みです.

疏水太郎

私のお庭は,広いから

CLANNAD(PS2)ことみ.ここしばらくの間,大変気がふさいでいたのですが,久々に世界が美しいように思えてきたなぁ,というようながっかり具合や立ち直り具合をWebページで公開するのもなんだか久しぶりですわね.

演劇部室にたむろする皆さんの中での一ノ瀬ことみという人の落差が,声のポテンシャルとして確かにそこに存在していました.ポテンシャルなのでそれは話が進むにつれての運動を予想させるものでもあってね.あと藤林が「お姉ちゃん」って言うときの声の感じがなんだかとても胸に響きます.

四十九日で親戚を迎えるにあたって片付けた家は,まずは床が見えるようになったことが大きな成果であって.次に,調度品へ肩をぶつけずに歩けると言うこと,そして,昔みたいに何にもなくて,部屋が明るいということ.時々両親のお客さんが来ることもあってにぎやかだった幼い頃を思い出しました.驚いたのが祖母はジャングル状態のこの部屋を知らなかったということで,祖母がうちに簡単には来られないくらい年をとってしまってからずいぶん経ってしまっていたことが気づかれたのでした.ここはもう十年も二十年も混乱した状態で,お客さんなんか呼べるはずもない状態で,もの凄いタイムマシンを使ってようやく綺麗にしたこの部屋が,祖母にとっては昔見た姿と同じで何の不思議もなくて,それが僕には不思議であって.今思えばもしかすると母は祖母にあの部屋の状態を見せたくなかったのかも知れないです.それにしても完全に片付いたということはなくて,人目に付く場所に置かれた有象無象は法事の日のみお客さんの立ち入らない場所へ押し込められるのでした.そこで押し込めることが可能なスペースが存在することすら,少し前までには信じられないことでした.

法事で僕が家に帰ったら,あ,そうそうバレンタインのチョコ,ということで姉が取りに行ってくれたのですが,ちょっと待て,君はそれでなぜ洗面所のほうへ歩いてゆくのかね.なぜって彼女の部屋からはもはやはみ出すしかないそういう新しい品々は居間に置かれ,法事のため一時,片付けるに当たって人の入らない風呂場のほうへ押し込められたに違いないのでした.そしてデメルの猫の舌げっと.

四十九日のお返し物のカタログのなかにプリザーブドフラワーというものがあって,姉はそれを気に入っているようで事務所に飾っているものの事などいろいろと教えてくれました.まるで生花であるように見える,生花を元にして特殊な薬品で作られた1年や2年は持つというお花だそうで.そんなん長持ちするお花やったら玄関の葉ボタンのほうが好きやわ,と僕は言ってしまって,ああしまったなぁと.

葉ボタンというのは主に花よりも葉が鑑賞される種で,キャベツのような形の色の付いた葉がまるでボタンの花のように見えるのです.花が咲いて散るよりはずっと長く楽しめて,母がお気に入りでよく玄関先に飾られていて,母はもともともっと花らしい花が好きだったはずなのだけど,たぶん毎日,忙しくなって,お花だなんて言ってられなくなってからこういう種を好むようになったんじゃないかと思われます.先日,この葉ボタンを見ていたとき姉が,私はお母さんたちと違って緑の指は持ってないから,私が触ると枯れるから触らんようにしてるねん,という健気なことを言っていたから.僕は緑の指って祖母の自称だと思い込んでいたのだけど,気になって8年前の文章読み直してみたら言ってるのお姉ちゃんやんかー!って判ってね.なんだかそこにとてもこだわりがあるようで.

今度機会が巡ってきたら,プリザーブドフラワーもいいんじゃない,と言ってあげたいのでした.

お庭とかことみの話はこのへんでもまた.

疏水太郎

ある日,爆弾がおちてきて

古橋秀之初読.表題作しか読んでないですが長くなりそうなのでとりあえず.

想像力が創造力に変わるお話(←ちょっと使ってみたかった).ニトログリセリンは爆弾を想像させるとか,胸の鼓動は時計のように刻むものであり,時限が来れば止まるそれは機械仕掛けとして連想されるとか,どきどきする恋心の在処が心臓の位置と容易に混同されることであるとか,昔ちょっと気になってた女の子が死んじゃうっていうドラマティックは,そうした連想のフル回転を伴うような,お話めいた出来事ではあります.それはそうとしてせっかくだから僕も色々想像させてもらうと,あんたときめきってどういうものだか本当に知ってるの,と問いただしたくなるようなピカリちゃんの段取りは,自分では読めない時計の文字盤であって,恋人持ちの長島くんによって冷静に読み取られてしまいます.とはいっても時計の針が読み取れるのはそれが思い出の中であるからで,気持ちというのは現在,目の前の出来事に対しては解釈できないもので,回顧のなかでようやくきっとそれはこういうことだったんじゃないかなと文字盤を明らかにするのでした.ああなんだ,つまるところ現在のことは本人にも他人にもよくわかんないよね.ある日,恋人がしてくれたおでこへのキスから,キスなんて出来なかったあの頃のことが思い出されたとして,それは今になってみるとやけに鮮明に読み取ることのできる文字盤として青臭く語られるのでした.

ここでサナララのことを少し思い出しておきたいと思います.サナララは第1章から第4章まで別のライターによるアンソロジーで,およそ男の子と女の子が過ごす時間は直線的であるよりも並行的あるいは量子的であるというお話でした.例えば,片岡ともによると第1章はみずいろの日和シナリオをもちょっとライトな感じにしたものであるそうで(*1).サナララに関して言えば,海富一による第3章「センチメンタル・アマレット・ネガティブ」(*2)と「ある日,爆弾がおちてきて」は見た目が大変似ているのですが,連続の断ち切られ方が異なっています.男の子がなんだか変な女の子と過ごした一日において,アマレットの方では変な女の子と知り合いの女の子との同一性が保証されつつも,その一日とその後の女の子の訃報とを男の子が連続した出来事として認知する道が絶たれています.一方,爆弾のほうでは,変な女の子と過ごした一日と知り合いの女の子の訃報が連続した出来事として認知される代わりに,変な女の子と知り合いの女の子との同一性はよく判らないものとされます.アマレットは1人,爆弾は2人,女の子の数が変わってくると自然,細工も変わってくるものですね.

*1: 男の子と女の子の時間の流れ方の違い参照.杉崎ゆきるのりぜるまいんは良いですねぇ.
*2: んっ,感想みたいなものはこのへん

疏水太郎

恋を語ること

永久アリス漫画版を読んだ感想としてきらはが可愛いというのは,キサちゃんがきらはについて語ることの手厚さのためでもあるように思います.僕がブライトさまのことを素敵だと思うのはレインのそれを経由していることと同じで.あとは,僕が松澤小巻に恋をする瞬間というのは田村くんがいきなり詩人みたいになってしまうときで,「真っ白くて小さな顔に,異様なほどにきらきら光る茶色の目玉が二つ.それが俺をじっと見つめている.ガラス玉みたいに透き通る目玉だ.」というこっ恥ずかしい第一印象が語られるとき,そこで語られた彼女の造作のためではなく田村くんがそんな突拍子もない描写をしたくなってしまったこと自体によって,僕にとっても松澤小巻はたいへんどきどきする,気が変になってしまうような相手として感じられるのでした.

疏水太郎

終わらないアリスのお話

介錯「鍵姫物語 永久アリス輪舞曲」(1)-(3).ときに突き抜けてくる情念と,その周りに散りばめられたあほ可愛らしさがとても良かったです.アニメでは読まれることのなかったきらはの心の物語が明らかにされるのですが,読んだ人が赤面しちゃうくらいあの分厚い一冊分お兄ちゃんのことしか書き記されていないのでした,なんてのはきらはの本だけかと思ったら,作中で読まれちゃう分に関してはみんなそういう恥ずかしい本ばかりっぽくてね.まだ判んないけどキサちゃんのも多分そうで,本一冊分みっしり書き記されたラブレターを恋人同士や恋敵同士で奪い合ってるというたいへん乙女な話です.

須羽さんの小理屈が有人たちの前でそのまま小理屈らしく振る舞ってしまう様子がやたら時間を掛けて描かれてるところも好きです.須羽さん愛されてるよなぁ.

アリスマスター,は何やってんだか.僕が彼ら彼女らとの勝負に敗れたならそのとき僕はもう自分の物語を差し出しているのであって(そしてこのWebページのような場で衆目に曝されるのであって),相手の物語に飲み込まれるリスクを負わずして何が物語蒐集か.彼ら彼女らと対峙することなくして物語なんてあるものか.と,一蒐集家としてもの申したい(参考1).リデルはそこんとこ判ってるし,アリスマスターがどういうわけで今みたいな考えになってしまったかはまだよく判んないのだけど.

漫画版を読んだそもそもの動機はアニメ版を見ていろいろ考えたことの答え合わせのためでした.同じ宮崎なぎさ監督によるアニメ版D.C.の大きな特徴として,純一・さくら・音夢の三者の恋愛関係においてさくらにチャンスのないことをシリーズの冒頭から明らかにしている点が挙げられます(参考2参考3).アニメ版永久アリスでも2話を見ていると早速きらはがありすに対して勝ち目がないように見えたので,この旗幟鮮明さは逆に言えば,先行した漫画版においてきらはにも勝ち目があることを示しているのではないかと予想されました.結論を言えばその通りで,有人・きらは・ありすの三者の恋愛模様にはまだぶれがあって勝ち目は誰にもありそうです.宮崎なぎさはアニメ版制作にあたっていつものメソッドで,つまり漫画版を読み込んだ上でエピソードの前後入れ替えや鍵となるアイテムを別の文脈で利用することによって(参考4),原作の見た目を残しつつ,短いシリーズで完結させるべくぶれの少ないストーリーに落とし込んでいるように見えます.今回鍵となるアイテムは第1話のチーズケーキで,ありすが買ってきたチーズケーキをきらはが食べるか食べないかで二人の関係が大きく違ったものとなっています.漫画版が食べる方で,アニメ版が食べない方ね.漫画版の二人の関係はおよそ良好で,少なくともアニメ版のようにキサちゃんから微妙と評されるようなものではないのです.アニメは漫画とぜんぜん違う話になるんだろうなぁ.

漫画版の話に戻ると,ぜんたい,きらはが可愛いと思います.幼い頃,お兄ちゃんがほしいと神様に願って,本当にお兄ちゃんがプレゼントされてしまったという場合の心境には,結構複雑なものがあるのではないかと想像されます.

疏水太郎

永久アリス#1と#2

ありすと有人以外は「終わらないアリス」に興味ないのに参戦してるという脱線ぶりが可笑しくて良いです.本気のことや大事なことは本筋から逸れたところにあるほうが普通っぽくて好き.

あれだけ派手な髪の色の世界で,有人ときらはの髪の色はやはり同系統である(参考)とか,もはや語り出すときりがない,というやつ.

疏水太郎

永久アリス#2(D.C.#25)

彼女らのままならなさが戦いへ直結する本気度を見ていると,中学生とは大変なものだと思えるのですが,たとえ打ち倒すべき敵と認めた相手であっても人の縁が出来てしまったなら争うことなく一緒に毎日を過ごせてしまう,きさちゃんの言葉を借りれば微妙な関係ということなんですが,僕は中学生の女の子を知らないのでそれは四十か五十の女が交わすような縁の持ちように見えて,そこでは悪縁も縁であって,ちょっと生々しい例ではありますが,おそらく母とは2,3のやりとりがあっただけで,しかも客観的に見るとそれは喧嘩だったのではと思える人がお通夜にわざわざ駆けつけてくれたというのが僕には不思議でした.先日僕が言った“深刻にならない”,というのは決して深刻でないはずはないのだけど,そこに別の道も開かれているというか,以下,別の言い方を探してみることにします.

僕らが父方の祖母とどうしてあまり会えなかったのか,それはついに父の口からは教えられることがなかったのですが,十年前,父方の実家へ帰ったお正月は僕にとっては最初で最後で,その帰り際に母が祖母を泣きながら抱きしめていた姿は,そんな母をそれまで見たことがなくて,一体そこにどれだけ難しいことが含まれていたのか今でも判らなくて,母もたぶん上手く言葉に出来ないんじゃないかと思います.

母がその祖母を憎んでいたということだけはまずないのですが,それにしてもD.C.第25話で音夢とさくらが抱き合うのを見るたびに,あの時僕が見た言葉にならない抱擁が思い出されるのです.抱き締めるというのは愛してるという気持ちに伴うだけじゃなくて,何か縁が極まってしまったときにも生じるのでしょうか.これは僕の想像に過ぎないのですが中学生の女の子というのはまだそこまで縁というものを芯に持たないので,長年の仇敵同士である音夢とさくらが抱き合うというのはゲーム版の話では有り得ない感じがするのですが,アニメ版の方では画面から伝わってくる何かすごい思い入れのような力でもって,中学生の女の子たちでもそこまで縁の極まることがあるのだと納得させられています.

永久アリスのオープニングアニメの良さは,冒頭で二度顔を見合わせるありすときらはの様子に集約されるのです.抱き締めるとまでは言わないでも,繋がっている,縁のある相手への処し方で,それは同じ男の子を好きになったお互いへの理解によるものというよりは,理解を前提としない何か破壊を妨げる原理が働いた結果であるように僕には見えます.

D.C.の後期エンディングアニメで音夢とさくらが手を繋いでいるという有り得なさもまた監督の宮崎なぎさの指定ではないかと思います.クレジットによると絵は田頭しのぶで演出が宮崎なぎさなんだけど.あと永久アリスのオープニングも絶対宮崎なぎさの手によるものだと思いましたが別のクレジットになってて,しかし,調べたらやっぱり宮崎なぎさの別名義でした(二宮ハルカ).うむ.

疏水太郎